2008/08/12

『愛人』 ~別世界に遊ぶ感覚~

1953年/東宝/87分
監督:市川崑
原作:森本薫
脚本:和田夏十,井手俊郎
撮影:玉井正夫
美術:村木忍
音楽:黛敏郎
出演:
有馬稲子
岡田茉莉子
越路吹雪
菅井一郎
尾棹一浩
三国連太郎


シネ・ヌーヴォ「市川崑 追悼特集」からの第一弾は,ソフィストケートされた洒落た感覚のコメディ。

市川監督本人が,森本薫の戯曲「華々しき一族」に惚れ込んで映画化した1本で,多分に演劇的な構成。ストーリー自体は,よくある三角関係・・いや四角関係,実は五角関係?の恋愛喜劇であります。

敗戦からさほど経ていないころの作品ながら,時代背景を全く感じさせない,ちょっと浮世離れのした,洗練された感覚が心地よいですね。

演出のテンポがよく,全体がリズミカルで,どこかアメリカ製のコメディ映画を観ているような,別世界に引き込まれるような楽しさがあります。

ただ,そこに描かれる恋愛感や,男女の恋情の機微は,やはり日本的でウェットな情感をたたえているのです。


有馬稲子が,ブルジョワ一家の快活で現代的なお嬢さんを好演しているのですが,この頃の彼女をこんなに伸びのびと魅力的に撮った作品は珍しい感じですね。

この人,タカラヅカ歌劇団きっての美人といわれながら,どうも映画ではさほど目立った印象がなかったのですが,この作品の有馬稲子は出色だと思いました。

一つには,キャメラワークにおいて,人物の極端なクロースアップを多用し,角度を微妙に変えながら,被写体の魅力を存分に引き出す手法が功奏している部分もあるのでしょう。


一方,母親役の越路吹雪は,当時まだ三十過ぎだったはずですが,さすがに貫禄があって堂々たるもの。この人も映画界が上手く使いこなせなかった一人ですが,こういう作品ではコメディエンヌとしてのセンスが活きますね。


演出的には,セリフより俳優の動作や表情に重点を置いていて,それが随所で伏線となり,映画的なサスペンスを醸しだしています。

巧みにミスリードして,観客にいっぱい食わせるみたいな演出もあり,また,十八番のストップモーションを使った編集もあり,さすが才人・市川崑,いろいろなことをやっています。


ラストは,みんなが一斉に泣き出し,最後の最後まで収拾がつかない展開。いったいどう締め括るのかと思ったら・・

なるほどそう来たか! 市川作品らしく,唐突ながら,奇妙に納得してしまう不思議なラストショット。

恋だの別れだのと言っても,所詮,人は今を生きていかなきゃという,濡れながらもカラッとした終幕。後年の『おとうと』にも通じる感覚だと思いました。


市川作品の魅力は,娯楽に徹していながら,随所に実験的な試みを入れ,それが空気のように馴染んで,観る者を知らず別世界に引き込んでしまうところ。これぞ映画職人の真骨頂でありましょう。


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2008/07/28

『赤い風船』 ~時をへて甦る私自身~

1956年/フランス/36分(2008年デジタルリマスター)
監督・脚本:アルベール・ラモリス
撮影:エドモン・セシャン
音楽:モーリス・ルルー
出演:
パスカル・ラモリス
サビーヌ・ラモリス


ずっと昔,私がまだ小学低学年のころ,町の児童会館では,時おり子ども向け映画の上映会がありました。

東映動画の『空飛ぶゆうれい船』などがよくかかっており,公開から数年の旧作がかかることが多かったようです。

時おり,特撮モノで観たことのない作品が上映され,それがしばらくしてから,テレビで新番組として放映されることがあって,子ども心に一体どういうカラクリになっているのだか不思議に思った記憶があります。


そして,そんな中に混じって,少年と赤い風船の触れ合いを描いたシュールな外国映画の短編がありました。

2~3回は観たと思いますが,観るたびに惹きこまれ,強く印象に残る映画でした。ただ幼かったため,どこの国の何という作品なのかも知らないまま,長らく記憶の片隅にしまい込まれていたのでした。

歳月が流れ,黒澤明が亡くなった頃のこと。ある雑誌で「黒澤明が選んだ100本の映画」という特集があり,中にアルベール・ラモリスの『素晴らしい風船旅行』(1960)という作品が挙げられているのを見て,なぜか,あの少年と風船の物語が記憶の奥底から呼び覚まされました。

そして,さらに10年たった今夏,ラモリスの短編『赤い風船』(1956)が,同監督の『白い馬』(1953)とのカップリングで,デジタルリマスター版としてリバイバルされたのです。

まぎれもなく,幼い頃に観て心に残っていたあの作品・・ さっそく,梅田ガーデンシネマへ出かけました。じつに37~8年ぶりの再会であります。

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この作品は,一篇の映像詩とでも言うべきもので,有り体に分類してしまうと,「ファンタジー」ということになるのでしょう。

少年はある日,街角で赤い風船見つけ,それを持って歩くうち,風船が意思と魂を持つかのように動き出し,まるで仲の良いペットか,友だちのように,少年に寄り添うようになります。


風船をそれらしく生きているように撮るテクニックが素晴らしいですね。少年と戯れるシーンには,ある種の肌合いが感じられて,本当に対話をしているような錯覚を覚えます。トリック撮影もこういうのは良いですね。

一方,セリフが入るのはほんの数ヶ所で,ナレーションや字幕も一切入れず,ただ映像の流れだけで物語を綴っていきます。これは物言わぬ風船と人間を同じ次元で並置するためには,重要な手法だったのでしょう。


何より,パリの街角のロケーションによる撮影は秀逸。古ぼけたセピアや灰色の街並みに,テクニカラーによる風船の鮮やかな「赤」の発色が際立って見事でした。

全編をほぼ屋外シーンだけでつなぎ,徹底的にオープンエアに拘ったのは,やはり「風船の物語」の故でしょうか。

この拘りが空気の抜けの良い画面をつくり出し,短編として重要な,映像の一貫性につながったように思います。ヘタに室内シーンなど入れると,ダルくなってダメでしょうね。


少年と風船のホノボノとした触れ合いの優しさ,悪童たちとの追いかけっこのモーションリズム,そしてあのシュールなラストシーンの何ともいない幸福感。

わずか30分余りのなかで,豊かな詩情をたたえながら,モーションピクチャーの真髄を見せてくれる・・ 小品ですが,まさに得がたい逸品であります。


まあ,あまり理屈っぽいことは言わず,子どものような素直な心で,ただ感じるままに観るのが最良でしょう。

私自身が,主人公の少年とさして違わない年ごろに観て感銘を受け,40年近くたった今,再び観る機会を得て・・

気がつけば,スクリーンの少年に,その頃の自分自身を投影していた・・ そんな不思議な再会でありました。


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2008/05/10

『怒りの日』 ~人間であることの罪~

1943年/デンマーク/97分
製作・監督:カール・T・ドライヤー
脚本:ポール・クヌッセン,カール・T・ドライヤー,モーウンス・スコット=ハンセン
撮影:カール・アンデルソン
出演:
トルキル・ロース
リスベット・モビーン
アンヌ・スビアキア
シグリ・ニーエンタム


これはドライヤーの作品の中では,比較的,ストーリーラインが明瞭で表現も解かりやすく,映画としてはふつうに観やすい作品であると思います。

例えば『ゲアトルーズ』のような,ユッタリと眠気を誘うようなリズムの作品とは違い,演劇的なスピード感があって,サスペンスも強烈で面白い映画といえるでしょう。

それと同時に,厳しく「人間」を凝視する視線を持った作品でもあると思います。

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本作は,ヨーロッパ中世の魔女狩りに材を取っており,ドライヤー作品の中では,『吸血鬼』ほどではなくても,視覚的なケレン味があって,取り分け肉体感覚の生々しさでは群を抜く印象です。

魔女の血を引くとされるアンネは,父娘ほど年の離れたアプサロン牧師の後妻に入りますが,老いた聖職者の妻という欲求不満に加え,姑にも憎まれ針のむしろ。そんななか,学業を終えたアプサロン師の息子が戻ってきます。


まず,序盤で魔女とされる老婆を捕え,火刑にするシーンが恐ろしい・・

教会の殺風景な審問部屋で,多くの牧師が取り囲んで,老婆を拷問にかける。ドライヤー映画特有のシンプルな室内,その壁に踊る「影」,よどんだ空気をつんざく老婆の悲痛な叫び声・・

この老婆が,牧師に脅迫まがいの命乞いをするあさましい「人間」として描かれているのがポイントで,拷問シーンではブヨブヨの肌を露わにして,乳房が見えそうなくらい・・ その不快な肉感や生命感が,続く火刑シーンの恐ろしさを倍加させている感じがします。


問題の火刑シーンは『裁かるるジャンヌ』と同じく,昼間の屋外セットでドキュメンタルな感覚を活かしています。

ともかく,高い梯子に括りつけた老婆を,モクモクと煙を上げる業火の中へドサッと落とす一瞬がショッキングで,その生々しい質感は,今どきの無機質なコンピュータ映像では表現のしようがないものでしょう。


アンネは,最初のうちは貞淑な印象ですが,アプサロン師の息子と出会って,徐々に魔性をあらわし,老婆の無残な火刑をも忘れ,義理の息子を誘惑して禁断の愛に身を焦がします。


アンネを演じた女優の目が印象的で,彼女の顔のクロースアップが繰り返され,意識的に横からライトを当てて,爛々とした目の光を強調しています。

特にクライマックスで,アプサロン師に残酷な責め言葉を浴びせ死へと誘うアンネを,これでもかというぐらい美しく撮り,緊迫感と同時に,ある種のエクスタシーで最高潮に達します。

そして,アプサロン師がついに命を落とすとき,観ている方も,自分の心奥に潜む「悪魔」を暴いて見せられ,ハッとさせられるのです。


これは,もちろん魔女を主人公にしたホラー映画ではなく,魔女とされる人物も,ふつうに人間として描かれます。

本作の本領は,宗教的な戒めなどでは決してなく,宗教と対峙する生きた人間の真実,抗いきれない本能と,その「罪の本質」を暴いて見せたこと・・ 実に峻厳な作品であると思うのです。


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2008/05/04

『ゲアトルーズ』 ~これが純化の極地なのか~

1964年/デンマーク/117分
監督・脚本:カール・T・ドライヤー
撮影:ヘニング・ベンツェン
出演:
ニーナ・ペンス・ローデ
ベント・ローテ
エッベ・ローデ
バール・オーウェ


映画のレビューを書いていて一番苦しむのは,文章では,ほとんど何も語りつくせないような作品に出くわしたとき。

誰もがそうなのかもしれませんが,私はブレッソンやタルコフスキー,そして今回のカール・ドライヤーの諸作については,いつもその思いを強くします。

本作はドライヤーの遺作ですが,他の作品に比べると,ちょっと異質な感じがして,これをどう表現すればいいのか・・ 今回は迷いながらのレビューになってしまいそうです。


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映画史にその名を刻する巨匠カール・ドライヤーは,「聖なる映画作家」などと呼ばれることが多いようですが,そういう視点ばかりで捉えるのは,私には違和感があります。

いつもドライヤー作品を観るたびに,私は,映像に何やらセクシャルな感覚がつきまとうのを感じるのです。それは精神性の発露と同時に,俗な肉体感覚を映像に還元して見せるとでもいましょうか。


『奇跡』(1954年)の有名なラストシーン,モノクロームの簡潔な画面の崇高さと,棺に横たわる妻の亡骸の聖性・・

しかし,このシーンの感動の本質は,「聖骸」を生きた「肉体」に還俗(げんぞく)させる瞬間にこそあるのではないかと思うのです。甦った女が夫と抱擁し接吻しあうそのフォルムの生命感・・ この肉体感覚があってこそ,かのシーンは輝きを帯びて感動的なのであると。


ベッドに括りつけられた娘の凄絶な美貌,魔女の血を引く人妻の淫靡な誘惑,生きたまま業火で焼かれる女の肉感・・ ドライヤー作品に見られるサスペンシヴで官能的な映像の数々。

ドライヤーの映画は,ただ高尚で無機的な精神の映画ではなく,いつも精神と対置される肉体の存在感によって人間の「真実」を表現しようとしている,言うなればそんな印象なのです。


そんな中にあって,この『ゲアトルーズ』はかなり趣きを異にし,ひたすら枯淡として肉体感覚の希薄な作品といった印象があります。 

主人公のゲアトルーズ(を演じた女優)は,洗練されたイメージが強くて,俗な言いかたをすれば,女臭さが薄く性的魅力に乏しい・・

それは,『奇跡』から10年の沈黙を経て,当時すでに70歳代の半ばだったドライヤーが到達した境地を物語っているようにも思えるのです。


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本作は,「真実の愛」を求める女ゲアトルーズをめぐって,彼女を取り巻く男たちとのツーショットの会話を中心に構成される様式性の高い作品。

男は仕事に生き,女は愛に生きるといったいささか通俗的な図式のドラマを,限られた空間における,静かに内面をあぶり出すような映像で綴っていきます。


会話する男女を,ソファの端と端に並べるようなショットが繰り返され,キャメラをゆったりと左右に移動しながら人物をとらえ,そのフォルムや距離感,交錯を拒絶する視線などで,心の距離やすれ違いを表現します。


夫やかつての愛人と会話するゲアトルーズの視線は,常に宙をさ迷っているのですが,歳若い不倫相手との逢い引きでは,しっかりと顔を見据えて愛を語り,接吻を繰り返す・・

印象的なのは公園での逢い引きシーン。ゲアトルーズと若い愛人は抱擁しあい愛を語る。ゲアトルーズが「(愛していると)もう一度言って」とせがむと,男はゲアトルーズの身体から離した手をやおらポケットに突っ込み,「愛している」と冷めた調子で言う。

こういった静的なフォルムと表情の微細な変化,音像の象徴性などにより,ゆったりと,しかし確実に,見えない「真実」を垣間見せる映像の妙。


夫も,愛人も,かつての恋人も,すべてを捨ててパリに住む旧知の医師の許へと家を出るゲアトルーズ,その嬉々とした歓びの表情・・

ところが,そこから突如として時を超越し,アヴァンチュールのすべてを省略して,愛に生きようとながら,ついに愛を得られなかった女の皮肉な末路を見せてしまう。

ラストショットの固く閉じられた扉が,老いた女の諦観を物語るかのようであります。


老境に入った作家が,もはや精神のざわめきも,肉体の疼きも昇華しつくし,純化されたようなタッチで見せる様式劇。これを本当に理解するためには,私などは,まだまだ年季が足りないのかもしれません。


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2008/04/30

日本最終上映!カール・ドライヤーをはしご鑑賞

この4月末をもって,カール・T・ドライヤーの諸作の日本における上映権が切れるというので,祝日の4/29を挟むこの3日間だけ,京都みなみ会館と滋賀会館の共催で,ドライヤーの特集上映を組んでくれました。

ありがたいことです(が,ギリギリ過ぎ。もうちょっと余裕があればねぇ・・)


上映作は以下の5本です。

『裁かるるジャンヌ』(1927年/フランス/無声)
『吸血鬼』(1931年/ドイツ・フランス)
『怒りの日』(1943年/デンマーク)
『奇跡』(1954年/ベルギー・デンマーク)
『ゲアトルーズ』(1964年/デンマーク)


数年前(2003年らしい)に,東京でドライヤーの大特集上映が催されたとき,この5本は全て観ていますが,今回,観直しておきたかった『ゲアトルーズ』『怒りの日』の2本を,滋賀会館→京都みなみ会館のはしごで観てきました。


『ゲアトルーズ』は,前回は,確か移転前のユーロスペースで観たのですが,不覚にも睡魔に襲われ,まったくハンパな観方しかできておらず,『怒りの日』も1回観たきりで,当時レビューも書かなかったので・・


他の3本はすでに2回は観ているため,今回は割愛ということにしました。日本最終上映なので惜しかったのですが・・

やはり1日では2本が限界。ドライヤーの映画を日に3本も4本も観るのは,今の私では体力・精神力が持ちません。(T_T


それにしても,京都みなみの方は,かなりの集客でちょっとビックリ。やっぱり関西ではこういう作品の上映機会が少ないですから・・


作品のレビューはまた折りをみて。


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2008/03/24

『にっぽん泥棒物語』 ~第一級の掘り出しモノ~

1965年/東映/117分
監督:山本薩夫
脚本:高岩肇,武田敦
撮影:仲沢半次郎
出演:
三国連太郎
佐久間良子
伊藤雄之助
江原真二郎
緑魔子
市原悦子
北林谷栄
鈴木瑞穂
金子吉延


旧い映画ばかり選んで見続けていると,思わぬところで,貴重な拾いモノをすることがあります。

映画史の狭間に埋もれて,ほとんど日の目を見ない作品たち・・ そんな作品を時おり劇場にかけてくれる目利きがいて,観る側は,それをしっかり受け止められるかどうか・・

拠りどころは,自分なりの勘しかありません。このあたりが,クラシック映画ファンであることの醍醐味の一つともいえるでしょう。


今回「山本薩夫監督特集」で観たこの珍妙なタイトルも,あまり知られていない喜劇映画ですが,ふつうのコメディとは違って,山本作品らしく,しっかりと骨のある逸品。

喜劇のため一段低く見られたのかもしれませんが,こんな素晴らしい作品が,ほとんど語られることもなく埋もれてしまっているのは,真にモッタイない。


******************************

本作は,戦後史の汚点として悪名高い「松川事件」を下敷きに,当時,弁護側の証人として証言台に立った実在の人物(泥棒)をモデルに構成されたフィクション。

大泥棒の破天荒な人生描写を横糸に,権力によって仕組まれた冤罪事件の成り行きを縦糸に,エンタテインメントの要素を存分に盛り込んで,人間喜劇に仕立て上げたといったところ。


主人公(三國連太郎)は,田舎で歯科医を装いながら,裏の顔は,その筋では名の通った大泥棒という設定。ただ,ふつうの泥棒とはちがって,商家や金持ち狙いの破蔵師(いわゆる土蔵破り)なのです。


ある夜,土蔵破りをしくじった帰り道,主人公は,鉄道の線路上で屈強な9人の男たちと出くわし,その夜に列車転覆事故が起こります。

そして,お縄になって収監された刑務所で,主人公は列車転覆事件の容疑者と目される労働組合の幹部たちと知り合いますが・・ 自分が目撃した男たちとは明らかに違う。


時は流れ,妻子を得て,今やひとかどの人物と目されている主人公は,過去をネタに刑事に脅され,列車事件の弁護側証人となることを拒絶します。

しかし,かつて刑務所で知り合った組合のリーダーに再開。彼とその健気な息子が,冤罪で10年を棒に振りながらも,真実が明らかになる日を信じて闘う姿に心動かされ,ついに主人公は,何もかも投げ打って証言台に立つ決心をします。


この場面がじつに感動的で素晴らしい。三國連太郎が上手いのは言うまでもありませんが,こういう社会派映画では「顔役」の鈴木瑞穂と,われわれ世代には懐かしい子役の金子吉延(青影)が泣かせる・・


そして,クライマックスの法廷シーンはまさに出色。権力のデタラメや理不尽を真正面から暴きたて,笑い飛ばすそのセンス。三國連太郎の快演に大笑いしながら,最後は言葉では表現のしようのないカタルシスにはまります。

異色ではありますが,法廷シーンとしては,日本映画史上屈指ではないかと思いました。

 
山本薩夫は,この数年前にシリアスな実録モノとして『松川事件』を撮っていますが,そのとき,まだ事件は公判中で,被告20名の無罪判決も出ていなかったのでした。そして,無罪(冤罪)確定後に,同じ題材を,視点を変えて斬り直したといったところ。

澱みなく密度の濃い演出に,動的なキャメラワーク,映像をテンポよくつなぐリズム感,役者の力量の高さと,脚本の面白さ,どれを取っても一級品。


こんな映画をスクリーンで観られてよかった,クラシック映画ファンでよかったと思うやしきりであります。


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2008/03/15

『真空地帯』 ~今,平和ボケの時代に~

1952年/日本・新星映画/129分
監督:山本薩夫
原作:野間宏
脚本:山形雄策
撮影:前田実
出演:
木村功
下元勉
利根はる恵
神田隆
加藤嘉
西村晃
岡田英次
金子信雄


シネ・ヌーヴォ「山本薩夫監督特集」から最初のレビューは,軍隊内部の実態とその不条理を暴いた山本薩夫作品の中でもよく知られた1本。


これはいわゆる「戦争映画」とはちがって,派手な戦闘シーンなどは一切なく,人ひとり死ぬわけでもなく・・ ただ銃後の兵営生活の暗部をえぐり出しながら,戦争の非道さを浮き彫りにするといった趣向。


戦後,この手の軍隊ドラマはけっこう撮られたのだと思いますが,何しろ原作者の野間宏も山本薩夫も,共に軍隊経験者だけに,その描写,その演出は荒削りながら迫真力に満ちています。


ともかく役者たちの目付きがただ事ではありません。制裁場面などでは,主演級を除いて本当に殴られているし,その肉体感覚は生々しい・・

この時代の映画人は,スタッフも役者も皆,戦争の時代を生き抜いてきているだけに,全てにおいて今とは次元が違ったのでしょう。

もはや姑息な映画的技巧など問題にもならない。画面から発散される強烈なエネルギーと緊迫感で,瞬きもできないほど。


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ドラマは,かつて将校の汚職に関わり,無実の罪で収監されていた4年兵(木村功)が連隊に戻ってくるところから始まります。


いつ野戦へ送られるかわからない小学卒の古年兵や補充兵は,そのうち自分たちの上官になるであろう大学卒の初年兵たちに対し,本能むき出しに苛烈な虐めを加える。初年兵たちは,そんな古年兵たちが早く戦場へ送られることを待ち望んでいる。

2年兵や3年兵は,見て見ぬふりの事なかれ志向。そして将校連中は,物資の横流しで私腹を肥やし,野戦行き(つまり誰が死にに行くか)で卑劣な裏工作をする。


これはもちろんフィクションですが,山本薩夫の実体験を綴ったものを少し読んでみても,似たり寄ったりのことはあったのだと思います。


そんな不条理の連鎖の中で,集団催眠のように人間性を奪い取り,精神を破壊し,空っぽの真空状態にしてしまう。そうでなければ,地獄のような戦場で,生死の境を彷徨いながら,ただ意味もなく人を殺し続けたりできないのかもしれません。


ここに暴き出される組織の実態は,もはや,戦争に勝つとか負けるとか,祖国のためとか,そんなこと以前の問題。崇高なものや,格好良いもは何もない・・ こんな組織に国の防衛などできようはずもありません。


まさに,最底辺の泥まみれの現場から「戦争」の姿を浮き彫りにし,その理不尽をスクリーンに叩きつけた力作。

平和ボケが叫ばれる今この時代に,もう一度,振り返って観ておく価値のある一本といえるでしょう。


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2008/02/20

『あなたと私の合言葉 さようなら、今日は』 ~市川流パロディ作法~

1959年/日本・大映
監督:市川崑
原作:久里子亭
脚本:久里子亭,舟橋和郎
撮影:小林節雄
唄:川村淳,和田弘とマヒナスターズ
出演:
若尾文子(青田和子)
京マチ子(市毛梅子)
佐分利信(青田伍介)
野添ひとみ(青田通子)
菅原謙二(渡辺半次郎)
川口浩(片岡哲)
船越英二(市毛虎雄)


千日前国際シネマ「京マチ子名作映画まつり」から,市川崑監督作のレビューを1本挙げておきます。


衆目の一致するところ,本作は小津作品をパロディ的に真似たものと考えられており,実際,これを撮り終えた市川崑は,当時まだ現役監督だった小津安二郎に謝りに行ったという逸話が残されています。


最近でこそ,洋・邦を問わず,小津映画へオマージュを捧げる作品は数え切れませんが,こんな風に小津が存命中にパロディにしてしまったのは,この作品ぐらいではないでしょうか。

しかし,そこは才人・市川崑。単なる模倣のはずはありません。

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ともかくパロディ性がもっとも前面に出たのは,冒頭近くで若尾文子が電話の受け答えをするシーン。その不自然なほど感情の遮断された断片的なことばの羅列・・

小津映画のファンであれば爆笑だと思いますが,ここまで誇張されると,「パロディ」というより,もはや「ギャグ」に等しいですね。


しかし,そんなシーンはここだけで,あとはセリフの抑揚を抑えてはいても,普通にドラマを展開していきます。


小津にならい,キャメラを固定にして,カットでつなぐことを主とし,シーンの冒頭に1つか2つ短いカーテンショットを入れたりしていますが,ローアングル一辺倒ではないし,小津映画とは映像リズム自体がまったく違いますね。

全体にリズムが速く,会話シーンのカットバックでも,小津のような妙な間を入れず,サクサクとつなぎながら,軽快なリズムの途中に,唐突に沈黙の間合いを入れてリズムを寸断してみたり,市川崑らしい変幻自在な構成です。

また,小津作品と違ってシネスコですから,人物単体のバストショットはほとんどありえず,正面ショットは少なくて,やや角度をつけたり,対面する人物の肩越しのショットが多くなっています。


ストーリーは,なかなか嫁に行かない娘(若尾文子)を中心に,連れあいに先立たれた父親(佐分利信)と,娘の友人(京マチ子),婚約者などが絡むという,まさに小津的な主題に近似のものではあります。

しかしながら,そこには失われゆく家族の絆に対する諦観のようなものはなく,娘は大卒キャリアガールで,婚約者は好きだけれど何となく嫁には行きたくない,というのが現代的だし,実らぬ片想いや三角関係,強引な求婚など,色恋沙汰を積極的に描きこんでいるのも,小津作品とは異質。


印象的なのは,元婚約者の菅原謙治が若尾の勤め先に逢いに来るシーン,互いに想いを残しながら,ただ何となくすれ違ってしまった二人・・ 

アケスケな大阪女の京マチ子に対して,眼鏡をかけた若尾の硬い無表情が,かえってその想いの切なさを雄弁に物語り,胸にポッカリ穴があいたような心情描写に冴えがありました。


終盤の佐分利信と若尾文子の茶の間での会話シーンは,正面ショットのカットバックを主体にして,若尾文子が硬い表情から涙腺を崩すまでの演出が素晴らしい。

ここだけは,パロディではなく,やや長回し気味ながら,小津作品の正調を写し取ったような演出で,それまでの展開は,ひょっとして,このシーンのための伏線であったのではないかと感じたほど。


一方で本作は,明らかにこの前年にヒットした『有楽町で逢いましょう』にも便乗しており,とくにその挿入歌は,『有楽町・・』の替え歌なのではなかと思います。

また,濡れ場こそありませんが,しっかり若尾・菅原のラヴシーンがあって,その前後だけは,部分的に日活プログラムピクチャーの,これまた「パロディ」みたいなつくりなんですね。


さすがに一筋縄ではいかない,市川崑の異才ぶりが発揮された1本といえるでしょう。


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2008/02/16

『地獄門』 ~何故グランプリか?~

1953年/日本・大映/89分
監督・脚色:衣笠貞之助
製作:永田雅一
撮影:杉山公平
美術:伊藤憙朔
出演:
長谷川一夫(盛遠)
京マチ子(袈裟)
山形勲(渡辺渡)
黒川弥太郎(重盛)
坂東好太郎(六郎)
田崎潤(小源太)
千田是也(清盛)


千日前国際シネマ「京マチ子名作映画まつり」からのレビュー2本目は,いわずと知れた,邦画初のカンヌ国際映画祭グランプリ受賞作。

すでに2回ほど観ていますが,スクリーンで観たことがなかったので,あえて出かけたのでした。


ずっと以前,初めて観たときの感想は,「なんて眠い映画なんだろう・・」

確かに色彩はえもいわれぬような見事さで,「大映カラー総天然色」の嚆矢でもあり,映画史的な価値はそれなりにあるのでしょうが,そのまるでキレを逸したような演出はどう考えても凡庸。

何故これが由緒正しいカンヌで受賞したのか? そこには,様々な要因が絡み合っていたようです。

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カンヌで本作を強く推したのは,当時,審査委員長だったかのジャン・コクトー。作品評にて彼の曰く,「ここにひとつの能がある」・・

なるほど・・ これは「能」だったのか。じゃあ眠くてもしかたない・・(失敬!)


黒澤明『羅生門』のヴェネチア映画祭グランプリ獲得に味をしめた大映の天皇・永田雅一は,本作の製作にあたっても,映画祭への出品・受賞をねらっていたのは周知のこと。

永田は衣笠貞之介に,脚本をもっと長くするよう指示したそうですが,衣笠はホンは直さず,俳優にわざとゆっくり間延びのした演技をさせたという逸話が残されています。

特に,終盤の長谷川一夫演ずる盛遠と山形勲演ずる渡辺渡との対決シーン。本来,緊迫の極となるべきこの場面で,眠気が最高潮に達してしまう恐ろしさ・・


当然,日本国内では不評で,グランプリ受賞の報に接した当の衣笠は,受賞した意味がわからない,作品内容は空疎だと語ったとか。

間延びのした演出が,期せずして「能」のような静謐なリズムを(西欧人に)感じさせ,様式的で哲学的な奥深さを垣間見せたのだとすれば,何と皮肉なことでありましょう。


ただ,本邦初のイーストマンカラー・フィルムによる色彩は驚くべきもので,特に若草色と群青色は,この映画でしかお目にかかったことがないほどの見事な発色。また,京マチ子演ずる女御の単衣の朱色も鮮やかに目に焼きつきます。

洋画家・和田三造の色彩デザインを得て,美術の伊藤憙朔(清盛役の千田是也の実兄),撮影の杉山公平といった名人たちが紡ぎあげた映像美は,まさに職人技の極みともいえ,この辺も国際的には高く評価されたようです。


また,もと新派の女形だった衣笠貞之介は,時代がかった男女のフォルムの描出には定評があり,歌舞伎出身で衣笠に育てられた長谷川一夫の美丈夫ぶりと,日本人離れした肢体の割になぜか平安美人が似合う京マチ子の艶やかさは特筆モノ。

その他,いつも悪役専門の山形勲が清廉の士を演じたり,黒川弥太郎なんて,オールド時代劇ファンには嬉しい顔もそろって,それなりに見どころはあります。


それにしても,エキゾティシズムというのは,時に思いもよらぬ効用を持つもののようで,日本人には食傷気味な平安朝絵巻が,西欧人には,名工による骨董品のごとく鮮烈に映ってしまったらしく・・

映画界には,時おりこういうことがあるんですね。


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2008/02/06

『鍵』 ~品格を失わない倒錯世界~

1959年/日本・大映/107分
監督:市川崑
原作:谷崎潤一郎
脚本:長谷部慶治,和田夏十,市川崑
撮影:宮川一夫
音楽:芥川也寸志
出演:
中村鴈治郎(剣持)
京マチ子(郁子)
仲代達矢(木村)
叶順子(敏子)
北林谷栄(はな)


大阪・千日前国際シネマで開催中の「京マチ子名作映画まつり」も3週目を終え,これまでに4本を鑑賞しました。その中から,取りあえず市川崑の『鍵』のレビューを上げたいと思います。

これは,谷崎文学を原作としながら,思い切って映画的な脚色を施し,市川崑らしい技巧を凝らした逸品。しかし,これみよがしでなくナチュラルで,とても面白い映画なのです。

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谷崎作品の映画化といえば,『細雪』のように普通に家族ドラマとして扱える題材から,『痴人の愛』や『春琴抄』のように,脚色しないと扱いにくいもの,そして『卍』・『刺青』といった「取扱注意」マークの付される作品まで様々・・

で,本作はどうかというと,これはかなり性的な倒錯度合いが高く,やはり「取扱注意」作品の一つでしょうね。

なにせ,中村鴈次郎演ずる初老の古美術鑑定家は,自身の性的衰えをカバーするため,妻(京マチ子)をわざとほかの男にゆだね,その嫉妬で性衝動を呼び覚まそうというのですから・・


文章の技巧によって格調を保つ小説とは違って,映画でこういう題材を扱うのは難しく,下手をするとエログロもどきになってしまいかねない。しかし,そこは名匠・市川崑,決して品格を失うことなく,映像も美しく素晴らしい。


アグファカラーを使った割には,暖色寄りの発色にならず,全体に黒を強調したコントラストの強い画面で,しっとりとした中に,古写真のようなヒナびた空気を醸しています。舞台の京都によくマッチした色合いですね。

撮影の宮川一夫は,翌年,『おとうと』で「銀残し」という技法を用いて渋い発色を実現しましたが,ひょっとしてこの作品でも,それを使ったのでしょうか?


カラーでありながらモノトーンを強調し,主要人物のメイクも白っぽくて,まるで人形のよう。感情を抑制した演出とも相まって,人の血の通わない空疎な感覚を巧みに表現しています。

そういう抑制の効いた演出をベースにしながら,時おり挿入される性描写のエロティシズムが鮮烈。さらに,随所に笑いの間が組み込んであって,フツフツと可笑しさがこみ上げる構成も心憎い。


それにしても,中村鴈次郎はさすがといいましょうか,えらく淫靡で下卑た役柄ながら,決して品位を失わず凛として・・ さすが梨園の名優。


一方で,登場人物の胸の内をあからさまにしないミステリアスな表現が効いており,例えば,京マチ子演ずる妻の夫に対する感情の描写は,足の悪いネコへの仕打ちぐらいしかなく,仲代達也との密通についても,思わせぶりな表現だけ。

真意はずっとグレーのままで来て,終盤,ついに夫が死ぬ場面での,妻のえもいわれぬ表情にすべてが集約して表現され,背筋がゾクッとするような気分でした。


また,全体に映像の密度が高いといいましょうか,無用な風景描写や物語の本筋から逸れるようなシーンはほとんどなく,冒頭から,一瞬にして観る者を物語世界に引き込み,あとは眠気が襲ってくる隙間すら与えない。

さらに,監督のオリジナルというラストは,よくできた短編小説のように,キレ良く鮮やかな印象を残してThe End。

名匠・市川崑,若き日の才気がほとばしる,けだし名編といってよいでしょう。


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2008/01/20

『洲崎パラダイス 赤信号』 ~渡るも渡らぬも心赴くまま~

1956年/日活/81分
監督:川島雄三
原作:芝木好子
脚本:井手俊郎,寺田信義
撮影:高村倉太郎
助監督:今村昌平
出演:
新珠三千代(蔦枝)
三橋達也(義治)
轟夕起子(お徳)
芦川いづみ(玉子)
河津清三郎(落合)
小沢昭一(三吉)


正月明けから,京都みなみ会館で「川島雄三レトロスペクティヴ」という特集上映が行われており,取りあえず,この『洲崎パラダイス 赤信号』『しとやかな獣』(1962年)の2本を観ました。

川島雄三といえば,近年になって見直され,若いファンも増えているようですが,私自身は『幕末太陽伝』ぐらいしか観ている作品が思い浮かばないな・・

と思いきや,フィルモグラフィーを眺めてみて,けっこう昔から何本も観ていることに気づきました。プログラムピクチャー的な作品が多く,監督名まで意識していなかったのです。


なかでも印象的なのは,通天閣を望む丘の上のアパートで繰り広げられる群像劇『貸間あり』。そういえば『幕末・・』とも通底する世界観だったな,なんて今ごろ納得したりして・・


さて,本作はそんな川島の日活時代の作品で,男女の性懲りもない腐れ縁を,デカダンスたっぷりに,でも深刻ぶらず軽妙に描いた,これは,私の好きなタイプの作品なのです。

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舞台は,昭和30年ごろの東京下町。江東の「洲崎パラダイス」は吉原とならぶ遊廓街だったところ。

かつて廓の女だった蔦枝(新珠)は,倉庫会社をクビになった男・義治(三橋)と駈け落ちしますが,ついに文無しになって,二人は「洲崎パラダイス」の門前にやってきます。

橋を渡れば,そこは別世界。しかし,寸でのところで二人は思い留まり,橋の手前にある,ネコの額ほどの一杯飲み屋に立ち寄り,そこの女将のやっかいになります。女は飲み屋の女中として,男は蕎麦屋の出前持ちとして働きはじめますが・・


頽廃的で,デカダンスな匂いを漂わせながら,しかし完全には落ちてしまわないのが本作のミソ。男女はついに「洲崎パラダイス」へ入ることはなく,一歩手前で踏みとどまったまま映画は進行します。

塀の上をヨタヨタ歩きながら,あちら側へ落ちると止めどなく悲劇に陥るところを,そうはさせず,ハラハラさせながらも,軽妙にさばいて見せる粋な展開です。


一方で,純情一途なトラック運転手や,芦川いずみ演ずる蕎麦屋の看板娘など,頽廃世界と対極にある人間像をしっかり描いて見せたのが効いています。

特に芦川いづみの演出には相当な思い入れがあったようで,新珠三千代との静かな対決(?)シーンは目が離せないほど見ごたえがありました。


社会と折り合いをつけてうまくやっていくこと,それは作中,「かた気」になるという言葉で表現されます。

ドロ沼の愛憎劇ののち,結局,女はパトロンオヤジの元へ逃げ,残された男は「かた気」になろうと出前持ちに精を出す。可憐な芦川の存在もあって,観ている方は何となくホッとしますが・・

またぞろ昔の女が現れ,キナ臭いにおいが漂いだし,そして,ある人物の「死」と直面したとき,男と女は再開してしまいます。


結局,最後は元のモクアミ,ズルズルと深みにはまって抜け出せない,性懲りもなく救いようのない男女の業・・。

しかし,社会に寄り添って生きるも人間なら,明日は明日,今この刹那に生きようとするも人間。理屈やキレイ事だけでは済まされないのが「人間」というやっかいな存在の真。


全編,「川の描写」にこだわっていて,男と女の「流れ流れて着のみ着のまま」な心象を表徴し,また,雨を繰り返し使ったサスペンス描写にも冴えがあります。

映像に言い知れぬツヤがあり,省略が効いてテンポがよく,適度に戯画的で,適度にサスペンシヴで,ハラハラさせながら,人生の可笑しさ,悲しさを浮き彫りにしていく・・

そこは才人・川島雄三が紡ぎだす人間交差点,「赤信号」を渡るも渡らぬも,ただ心赴くままというところでしょうか。


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2007/12/31

発掘レビュー(8)『十字路』

2007年もいよいよ本日でお仕舞い・・というときに何ですが,ちょっと思い立って,久々に発掘レビューを一つ上げておきたいと思います。

こんなマニアックな映画を観ている人はかなりの少数派だと思いますが,新派の女形(おやま)から映画界に転じた衣笠貞之介が,昭和初期に何本か撮っていた前衛作品の1本。


けな気な姉と放蕩者の弟の悲劇・・といったこのころのステロタイプな物語で,いかにも新派劇的な情感タップリのお芝居のリズムを保ちながら,アヴァンギャルドでもあるという,何とも不思議な作品であります。

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『十字路』 ~前衛表現と伝統的情感の交差~

東京国立近代美術館フィルムセンターにて(2004年3月21日筆)


1928年/衣笠映画聯盟・松竹
監督・脚本・原作:衣笠貞之助
撮影:杉山公平
美術:友成用三
出演:
千早晶子(姉)
阪東寿之助(その弟)


衣笠貞之助といえば日本映画草創期からの巨匠で,長谷川一夫を育てたことでも知られる娯楽時代劇の大家ですが,サイレント期には本作のような野心的な前衛映画を何本か撮っているようです。


この作品も滅多に観られる代物ではないので喜び勇んで出かけたところ,何と英語版プリント!

無声ですから,つまり最初のクレジットからセリフ字幕まで全て英語なんですね。

しかし,このころの無声時代劇を観たことのある人ならお解かりでしょうが,ヒドク痛んだフィルムで,旧字・旧仮名による時代がかった言い回しの日本語字幕を読まされることを思えば,英語の字幕のほうがかえって解りやすいところがまた恐ろしい。


妙に歪んだ舞台装置や正体不明のオブジェ,キアロスクーロの深い強烈なイメージの描出など,ドイツ表現主義映画の模倣から始まっていることは明らかで,どうやら『カリガリ博士』あたりの影響が強いようです。


いわゆる人情もので,ストーリーは実に大衆的なわかりやすいものですが,凝った技巧的な画づくりを交差させて,不思議な映像空間を作り出しています。


一方で,古い時代の日本映画に特徴的な人情場面での執拗に間延びのした演出と編集・・

これは伝統的な舞台演出の継承なのでしょうが,サイレント期には活動弁士が朗々とした名調子を聞かせるために意識的にそういう作り方をする作品が多かったのだそうです。


この前衛作品でもそのへんは例外ではなくて,ドイツ映画の影響が強いとはいえ,やはり日本独特な映画作りの側面もあわせ持っているんですね。


今の感覚で観ると,全体にあざとく技巧に走りすぎた感は否めませんが,この時代の作品としては,実に開明的な一作であったことは間違いないのでしょう。


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2007/11/21

『猿の惑星』 ~いまさら観るのが面白い~

ここしばらく,なかなか映画館へ足を運ぶ時間すら取れず,ブログの更新もずいぶん滞ってしまいました。

最近は,ほとんど劇場でしか映画を観なくなったので,劇場に行けないと,もうどうしようもないんですよね・・(T_T

まあ,もうちょっとで復活します。きっと・・


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先日,何気なくテレビをNHK-BSに合わせたところ,映画のタイトルロールが目に入り,SFモノらしく,何やら宇宙船の航行シーンが・・

で,久々に見たような顔が出てきたなと思ったら,チャールトン・ヘストンじゃありませんか。


SFモノでヘストン出演といえば,もう『猿の惑星』第1作(1968年)に決まってますよね。


子供のころから,もう何度観たかわかりませんが,懐かしさに惹かれて,久々に最後まで観通しました。


始まりから,なかなか猿を登場させずに引っ張るし,主人公の口を利けなくしてヤキモキさせたり,あからさまに文明批判を効かせていたり・・

いかにも,この時代(60年代後半~70年代初め)の映画だなという感じがしました。


むかし観て印象に残っているシーンが多く,それをそのまま再確認するような感じでしたが・・

今回はノーカット字幕放送だったので,地上波の吹替え版で観たときとはずいぶん印象が違いました。


一つは,セリフのリズムがやけに淡々としていて,特にザイラス博士とテイラーの会話などは,イギリス映画のシェークスピアものみたいなリズムで,SFといえばB級扱いだった時代に,どこか格調を醸し出そうとした意図を感じました。


それと,むかしの吹替え版の翻訳の不備(?)に幾つか気がつきました。


例えば,古代文明の遺跡で「しゃべる人形」を見つけたテイラーが,ザイラスに向かって吐くセリフ・・


吹替え版では,確か「これが猿につくれるだろうか?」と訳されていたと記憶していますが,原語版では「しゃべる人形なんて猿がつくるだろうか?」(人間がしゃべるなんて思いもしないのに)という意味だったようです。


そして,あの有名なラストシーン,真実を知ったテイラーが浜辺で身悶えしながら叫ぶセリフ・・


吹替え版では,「畜生!猿どもめ・・」と猿が人類を滅ぼしたかのように罵倒していたと記憶していますが,原語版では「畜生!とうとうやりやがった」という感じで,誰が何をしたのかはハッキリ言っていない。

2作目以降(全5部作)の展開をご存知のかたはお解りでしょうが,これはけっこう重要なポイントですよね。


日本語吹替えの際のニュアンスのつかみ損ないは,けっこうあるのだと思いますが・・ 私も,むかしの記憶頼みなので,あまり自信がありません。


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ところで,「猿」の配役がけっこうマニアックなんですよね。


女性科学者のジーラ役は,あのキム・ハンター


エリア・カザンの『欲望という名の電車』(1951年)で,ヴィヴィアン・リー扮するブランチの妹ステラを演じたことで知られていますが・・

個人的には,M・パウエル&E・プレスバーガーの『天国への階段』(1946年/イギリス)で演じた,デヴィッド・ニーブンと一途な恋に落ちる女性兵士が好印象です。


若い科学者のコーネリアス役は,ロディ・マクドウォール


ジョン・フォードの名品『わが谷は緑なりき』の子役で知られ,経歴の長い役者さんですが,私の年代はやはりB級ホラーでの活躍が印象深いです。

特に,『エクソシスト』と並んで,70年代,空前のオカルト映画ブームの火付け役となった『ヘルハウス』(1973年/イギリス)で,最後にすべてを暴くシニカルな霊媒役がなかなかシブかった。

80年代には『フライトナイト』などでも活躍しましたね。


で,今さらなんですが,今回初めて「見ざる言わざる聞かざる」のギャグに気がつきました(^^。けっこう遊び心もあって面白い映画だったんですね。


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2007/11/02

『ひなぎく』 ~サイケな毒入りサラダ~

1966年/チェコ・スロバキア/75分
監督:ヴェラ・ヒティロヴァ
脚本:ヴェラ・ヒティロヴァ,エステル・クルンバホヴァ
撮影:ヤロスラフ・クチェラ
音楽:イジィ・シュスト,イジィ・シュルトル
出演:
イヴァナ・カルバノヴァ
イトカ・チェルホヴァ


今回は,京都みなみ会館で観たかなりマニアックな東欧映画です。


チェコ・ヌーヴェルヴァーグの代表作なのだそうですが,私はまったく知らない作品・・だいたいチェコ・スロバキアの映画なんて観る機会がないですからね。


作品内容はというと,何だかわけのわからない奇想のオンパレード。ちょっと一言では語れないぐらい。


主人公は二人の若い女の子で,年配のオッサンをたぶらかしては弄んだりするのですが,ストーリーはほとんどないに等しく,演出も即興性に満ちて,しかも映画の進行とともに,すべてがナンセンスに崩壊していくんですね。


二人は,ついには,ハサミでチョキチョキ腕や首を切り離したり,画面全体が切り刻まれたり(自分で書いてて,何のこっちゃわかりませんが・・^^;)。


クライマックスは,誰もいない豪勢なパーティ会場で,二人の女子がご馳走を食い散らかし,テーブルに乗って踊り暴れまわる。料理をグチャグチャに踏みつぶしながら・・


作品はカラー部分とモノクロ着色版を頻繁に切り替えて,映像リズムを出そうとしているようですが,残念なことに,カラーフィルムの部分が見るも無残に褪色していて,目を凝らして見ないと,色がついていることさえわからないほど。

これでは効果半減未満ですねぇ・・(溜息)


60年代後半といえば,世界的に「サイケ」全盛時代だし,原版はそうとうメリハリの利いたヴィヴィッドな色合いだったと想像されるのですが・・


この点は,本作がかの社会主義国において,いかにムゲに扱われてきたかという証しみたいなものでしょうか。


それぐらい,この映画は当時の共産圏においては,反道徳的かつ反体制的な傾向作品であったことでしょう。しかもかなりあからさまに毒が効いている。


冒頭のタイトルロールで古ぼけた戦争映像を挿入し,それが衝撃の(?)ラストへとつながる凝った構成。そして最後の一句は・・

「踏みにじられたサラダだけを可愛そうと思わない人にこの映画を捧げる」


この2年後の68年,チェコは「プラハの春」の改革と,それに続くソ連軍介入による大弾圧にさらされるわけですが,そんな情勢を背景に・・


(党幹部の)パーティーの贅沢なご馳走を無邪気に踏みにじるのは,そりゃお行儀悪いかもしれないけど,「人間」そのものを踏みにじる行為はどうなんだ!みたいな感じでしょうかね。


自由と平和に慣れた日本人には,こういう世界の屈折的な表現センスは,感覚的にピンとこないところがありますが,おそらく,様々な暗喩が散りばめられているのでしょう。


まあ,60年代的サイケ感覚なオシャレ映画として観てしまうのが,いちばん罪がないんですけどね。(^^


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2007/10/28

WANTED!! 正体不明の映画たち

先ごろ,デボラ・カーの訃報記事のなかで,子供のころ,テレビ放映で観たきりの『黒水仙』のことを書きましたが・・


そういえば,ずっと昔,テレビの洋画劇場で観て強く印象に残っていながら,題名すらわからない作品って,けっこう多いんですよね。


私が子供だった1960年代終盤から70年代前半ごろまで,テレビの洋画劇場は,今とは違って,戦前~1950年代の作品をけっこう頻繁にやっていました。


そんななかで,今も正体がつかめない作品をいくつか挙げてみたいと思います。


※何しろ古い記憶だよりなもので,内容が正確ではないかもしれませんが・・


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<その1> 騎士道もの?

どこの国の映画かわからないのですが。

ヨーロッパの騎士道ものか何かで,ある若い騎士(ヒゲを生やしていたような・・)がさる女性と恋仲になったものの,何かの事情で二人は別れ,女性は騎士を避けて,別の男と交際を始める。

しかし,騎士のほうは女性への思慕を捨てきれず,女がつきあう男を次々に決闘で倒していく。最後には女性も騎士への愛に目覚めて二人は結ばれる。


<その2> 母もの?

これは,たぶんアメリカ映画ではないかと思います。

ある家庭の母親が,何かの事情(犯罪に巻き込まれたか何か)で家族の元から去らなければならなくなり,夫や子供を残して,つらい思いで家を出る(あるいはどこかに連れていかれる)。

母は長い年月の紆余曲折をへて,ついに家族と再開しハッピーエンド(だったと思います)。


<その3> 反核映画?

これはきっとアメリカ映画だと思うのですが・・

核兵器を積んだ軍の艦船(潜水艦だったか?)に従軍記者が乗り込む。記者は核兵器を積んでいることを知らないという設定だったかも・・ いろいろな展開があって,ラストは何かのトラブルで核兵器が爆発。画面が歪んでブラックアウト。


<番外> インド映画

これはちょっと企画から外れますが,割りと最近(といっても10~15年ぐらい前),NHK教育テレビで見かけたインド映画です。

ある女性が男手を失って困窮。村はずれの焼却場か何か(焼物の窯かも・・)で働く火傷を負った男が女に関係を迫る。道ばたで待ち伏せたりするシーンあり。

女は最初のうち男を相手にしないが,生活に窮して背に腹は代えられず,ついには焼却場の男に身体をまかせ・・


*****************************************


昨今はインターネットの普及で,たいていのことは検索できるようになりましたが,上記の作品についてはなかなか情報が得られなくて・・


ほかにもSF映画で,ずっと気になっていた作品があったのですが。

地底にもぐった探検隊一行が,巨大キノコや巨大トカゲと遭遇したり,失われた古代文明の遺跡を発見したり・・ ワクワクドキドキの展開。最後は大きな陶器の皿にのって溶岩の噴出で地上に戻る。


これはジュール・ベルヌ原作の『地底探検』(1959年/アメリカ)という作品だと,割と最近になって知りました。


上に挙げた映画たちにも,きっとまたどこかで,偶然に出会うことがあるのでしょう。縁があれば・・


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2007/10/08

『彼岸花』 ~偉大なるマンネリズム~

1958年/日本・松竹/118分
監督:小津安二郎
脚本:野田高梧,小津安二郎
撮影:厚田雄春
音楽:斎藤高順
出演:
佐分利信(平山渉)
田中絹代(清子)
有馬稲子(平山節子)
久我美子(三上文子)
佐田啓二(谷口正彦)
高橋貞二(近藤庄太郎)
桑野みゆき(平山久子)
笠智衆(三上周吉)
浪花千栄子(佐々木初)
山本富士子(佐々木幸子)


いま,大阪シネヌーヴォでは,「小津安二郎監督 戦後傑作選」という特集上映が行われています。


昨日のモーニングショーで,久しぶりに『彼岸花』を観ました。戦後の小津作品のなかでは,けっこう好きな1本です。


小津としては初のカラーであり,ドラマティックな起伏の少ない小津作品のうちでも,ひときわ罪のない喜劇・・

特に本作は人が死ぬような劇的な場面もなく,ただ,ひたすらその独自の映像スタイルに磨きをかけたといった印象の一品です。


ポイントは,やはり大映から山本富士子を客演として迎えたことでしょうね。


本作を初めてカラーで撮ったことについて,小津は,山本富士子を使うことで,会社(松竹)からカラーにするように言われたので,そうしただけだと語っています。

しかし,小津自身,もともと「赤」に拘りを持っていたこともあるし,カラー撮影の技術自体が安定してきて,そろそろ使ってもいいかなと思っていたのではないでしょうか。


何せ,このあと,遺作『秋刀魚の味』にいたるまでの作品は,全部カラーですから。


ドイツ製のアグファカラーはしっとりとした色調ながら,今の感覚で観ると,あとから絵の具で着色したみたいな妙な不自然さを感じますが・・

しかし,暖色系をベースに,品良く装飾の行き届いた画面は,目を奪うような豊かさに満ちています。


さて,本作は,その女優陣の贅沢さにおいて,小津映画でも類を見ないものですが,なかでも山本富士子が素晴らしい。


かつての日本美人の代名詞,大映の大看板であり,当時,他社の作品に出ることはほとんどなかったと思いますが,松竹は借り出しに,そうとう苦労したのではないでしょうか?


今回は京都の旅館の娘役。大阪で生まれ育った山本富士子にとって,関西弁でチャキチャキ喋りまくる開けっぴろげな役柄は,まさに水を得た魚といったところ。

その歯切れよいセリフのリズム感と,絵に描いたような和装のフォルムの美麗さ・・

彼女が登場するシーンは,カラー映像の効果とも相まって,それまでの小津映画にはなかったような華やかさがありました。


ともかく観終わって,劇場に足を運んでよかったと,いつも思えるのが小津映画。


もともとストーリーはどれをとっても大同小異な日本のホームドラマですが・・

その偉大なるマンネリズム,保守的な物語が,独自な映像リズムをもって紡がれるとき,何度観ても飽きない芳醇な味わいが生ずる不思議。


それは「映画」というメディアの範疇を越え,磨きぬかれた伝統工芸品を愛でるがごときであります。


頭でっかちなゲージュツ論など軽くイナしてしまう職人技の極み・・ 名工・小津安二郎,円熟の逸品といってよいでしょう。


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2007/09/30

『メトロポリス』 ~サイレント映像の魔力~

1926年/ドイツ/104分
監督:フリッツ・ラング
製作:エリッヒ・ポマー
脚本:テア・フォン・ハルボウ,フリッツ・ラング
撮影:カール・フロイント,ギュンター・リター
出演:
アルフレート・アーベル
ブリギッテ・ヘルム
グスタフ・フレーリッヒ


フリッツ・ラングのドイツ時代のサイレント作といえば,私は『スピオーネ』ぐらいしか観ていなかったのですが,今回は『メトロポリス』がフィルム上映されるというので,はるばる神戸まで観にいきました。


本作は,ラング自身の編集による長大なオリジナル版はすでに失われてなく,時代により国により異なる,多くの短縮ヴァージョンが存在することで知られています。

80年代には,かの悪名高き(?)音楽版がつくられ,物議を醸したのは,まだ記憶に新しいところではないでしょうか。


今回観たのは,完全無声の16ミリ・英語インタータイトル版だったのですが,いつ,どこで,誰が編集したものだか,私などには知りようもありません。


上映時間は公称104分,これは映写速度によりますから何ともいえませんが,実際にはもう少し長かったと思います。


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さて本作については,映像処理に凝りに凝った作品という印象がまっ先にきます。

資本家と労働者の対立をモチーフにしたストーリーには時代性を感じますが,やはり映像の力に拘っている感じが強いですね。


サイレントらしく,人物の表情のアップを多用し,特にブリギッテ・ヘルムがたいへん綺麗なこともあって,その初登場シーンから目を惹きました。


そして,この映画の醍醐味は,何といっても,その造形物の鬼気迫るみごとさ・・

未来都市の背筋に怖気が走るような表現など,昨今のハリウッドなどのSF作品に多大な影響を及ぼしていることは疑いもないでしょう。


1926年といえば,SFXはおろか,まだトーキーも本格化していない時代ですから,こんな特撮が可能だったということ自体,驚きです。


労働者階級の住む地下都市は,セットで実物大に作ってしまったようですが,未来都市の遠景は,ミニチュア撮影と合成処理をミックスしたのでしょうか・・

バベルの塔のような大資本家の居所を俯瞰からも見せていますから,背景も単なる書き割りではないのでしょう。


また,群集シーンもかなり多いし,特に地下都市が洪水に襲われるシーンなど,セットの壮大さやエキストラの規模は半端ではなく,そのスペクタクル性において,昨今のCG合成の無機質なイメージとは,肌触りのちがう魅力があります。


そして,あの有名な女性型ロボット・・

陰影の濃い,黒光りするようなメタリックな感触でありながら,曲線や曲面を複雑・精妙に絡ませた女性的なフォルム。

そこには無機的なロボットと,有機的なしなやかさと,そして悪魔的な美しさが,アールヌーヴォー調とも思えるデザインの中に,見事にミクスチャーとして存在する感じがします。


それにしても,あの顔のクローズアップ・・人間的な感情のカケラもない冷たい表情が恐かったですね。


この時代のフィルムに独特の表現力といいましょうか,今の解像力の高いレンズや媒体ではかえって表現しえない,低性能でイイ加減だからこそ,美しくそれらしく見えるという,この時代の映像らしい肌触りを感じました。


ラストは労働者の暴動あたりから,魔女の火あぶり,そして最後の格闘シーンまで,息つく間もなく畳みかけ,無音の世界に視覚的イメージのみでスペクタクルを表現する。これまたいかにもサイレント的・・


鬼才フリッツ・ラングが,ドイツ時代にその才能を存分に見せつけた,文字どおり映像の魔力に満ちた怪作であります。


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2007/09/21

『鬼婆』 ~穴に始まり穴に終わる~

1964年/東京映画=近代映画協会/101分
監督・脚本:新藤兼人
撮影:黒田清己
音楽:林光
出演:
乙羽信子
吉村実子
佐藤慶
殿山泰司
宇野重吉


シネ・ヌーヴォ「新藤兼人リスペクト」からの5本目は,子供の頃から何度かテレビ放映で観て,ギトギトと脳裏にこびりついてしまった・・ そう“オニババ”です。


おそらく30年ぶりぐらいに再見したのですが,映像そのものの印象度が強烈なこともあって,けっこう細かいところまで憶えていました。


新藤兼人といえば,性本能をテーマにした作品が多いのですが,そんな中でも本作は,凄まじいまでの愛欲のカタマリみたいな作品です。


しかし,そうはいってもそれは,最近の映画によくあるような,ただ安易にセックスそのものの露骨な描写に頼ったものではありません。

毎夜,男の元へと葦ノ原を駆ける女の,ほとばしるようなエネルギーや,男が野原をのた打ち回って身悶えする様に,切ないほどに,欲望の渦が表徴されているのです。


昔観た記憶では,この映画は「穴」に始まり「穴」に終わるといったイメージがあったのですが・・ この「穴」はいったい何を象徴するものなのでしょうか?


戦さで田畑を荒らされ,働き手を奪われた女たちは,ただ生き延びるため,落武者を殺して刀や鎧を盗んでは,死体を「穴」に落とし,わずかばかりのヒエや粟を得る・・


乙羽信子演ずる姑が,死んだ息子の嫁を別の男に奪われることを恐れて吐く一言・・

「嫁を取られ,わし一人になっては,もう人を殺せない・・」


人を殺すことで何とか生きのびる,殺さねば生きててゆけない・・ 人間誰しも命にかかわる過酷な状況下では,「鬼」の所業をも由とせねばならない。


ラストで乙羽信子が,肉付きの面に腐食された面貌で,逃げる嫁を追って叫ぶ。

「わしは鬼じゃない!人間だー」


自分の浅ましくおぞましい姿をかえりみることなく,ただひたすら罪を犯し続ける人間の業。

人間らしく生きていくことの困難さ,そして「生」と「性」への執着の凄まじさ・・


そういう人間の原初的な本性は,時を越えて今の文明人のなかにも潜んでいるのでしょう。

その意味で,「穴」は太古の昔から今にいたるバイパスであり,それは「鬼」の棲家・・,つまり人間心理の暗部を象徴したものかもしれません。


一度観たら決して忘れられない,日本映画史に特異な位置を占める新藤兼人の代表作であります。


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2007/09/07

『母』 ~母性と女性の住み分け~

1963年/日本・近代映画協会/100分
監督・原作・脚本:新藤兼人
撮影:黒田清己
音楽:林光
出演
乙羽信子
杉村春子
殿山泰司
高橋幸治
頭師佳孝


シネ・ヌーヴォ「新藤兼人リスペクト」からの2本目です。


題名から成瀬巳喜男の『おかあさん』のような映画をイメージすると,全く裏切られることになります。

な~んて,新藤兼人がそんな「文部省選定」みたいな映画を撮るわけありませんよね。(^^


冒頭から,若い夫婦が病室で愛し合うのをのぞき見る乙羽信子。その傍らには彼女の幼い息子。

子供が脳腫瘍で目が不自由になって病院を訪れているというのに・・


きびしい現実に打ちひしがれながら,しかしそれと関わりなく,この寡婦の視線は中空を彷徨います。


この作品は,じつは女の「性」の問題を扱っていて,「母」としての憂いと「女」としての疼きが,映画の前半では,水と油のような二面性でもって描かれます。


この寡婦は,初婚の相手を戦争で亡くし,再婚にも失敗して,一人で子供を育てているのです。

そして母親の杉村春子に押し付けられるように,彼女は,決して豊かでもない連れ子のある印刷工(殿山泰司)と3度目の結婚をすることになります。


愛してもいない男と結婚することは,子供を病いから救うための契約であり,それは「女」であることを押し殺し,「母」であることを優先させた行為と捉えられます。


乙羽には持病があって,ときおり頭に痛みが走り,視界に白い粒子が舞います。

この正体が,最初よくわからなかったのですが,広島を舞台にしていることもあって,原爆の死の灰の影響かなと思っていました。


しかし,後半になって,それがヒマワリの花のクローズアップとつながった時,いきなりピンときました。(映画の中では全く説明されないのですが・・)


当初は,生理的に夫を受け入れられなかった乙羽ですが,一緒に暮らすうち,夫の人柄に惹かれ,徐々に「妻」であり「女」であることを再生していきます。


最後は殿山の子を身ごもった乙羽の決意の場面。ここで,ようやく「母」性と「女」性は住み分けることをやめ,一つに融合するのです。


新藤作品としては,やや技巧的なつくりが目立つ気がしましたが,弟役の高橋幸治など,周辺人物の描写が面白く,また,印刷工の単調な仕事場面の繰り返しなど,新藤らしさも随所に見られる佳作です。


ところで,乙羽の連れ子を演じた子役,どこかで見たような・・と思ったら,頭師佳孝でしたね。

『どですかでん』など黒澤作品で知られていますが,私の世代は,やはりテレビドラマ『飛び出せ青春』の頼りない高校生役が印象に残っています。


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2007/09/01

『強虫女と弱虫男』 ~新藤兼人の眼差し~

1968年/松竹・近代映画協会/107分
監督・脚本:新藤兼人
撮影:黒田清巳
音楽:林光
出演:
乙羽信子
山岸映子
観世栄夫
戸浦六宏
殿山泰司


シネ・ヌーヴォで開催中の「新藤兼人リスペクト」から,けっこう面白かった1本です。


新藤兼人といえば,世の片隅に打ち捨てられた人間の生態を,独特なアクの強さを持って描く作家というイメージがあります。

そのつねに地を這うような視線には,この人が本質的に持つ,社会に対する怨念や虐げられた人間に対する共感を見る気がします。


近代映画協会で撮られた本作は,一種の風刺喜劇でありながら,やはりそういった新藤作品の特徴がよく出ている印象がありました。


内容は九州の炭鉱閉山によるオトーちゃんの失業というドラスティック(?)な状況を背景に,オカーちゃんやオネーちゃんが都会へ出稼ぎに出るという,当時よく聞かれた物語。


ボタ山をあとに京都へ出て,母娘でいっしょに就いた仕事が,なんとネグリジェキャバレーのホステス!

そこにあるのは,ミエもコケンも何もない,ひたすらバイタリティ溢れる女の生きざま・・


イメージとして女の「化粧」をうまく使っていて,モノクロ撮影ならではの陰影表現が効いていますね。


化粧をした夜の顔と,昼間の素顔の対照が強烈で,おそらくその辺を意図して,娘役に山岸映子を起用したのではないかと思いました。

この人,モンゴロイド特有の小作りであどけない顔立ち。美人でも何でもないのですが,化粧によってずいぶん印象が変わるタイプですね。


そういったフォルムをうまく利用して,「女はバケモノ」的なステロタイプな皮肉を際立たせています。


男をたぶらかして巻き上げるだけ巻き上げながら,男から迫られると,商売は商売とサッと身をかわす。たとえヤクザ者に脅され痛めつけられても,開き直ってメゲない。

女どもの強さ,その生きることへの執念・・


それと対照的に,仕事や金やステイタスにしがみつくしかない男どもの頼りなさ・・つくづく男はツブシが利かんと,よく言われる理屈を思い知らされます。


観世英夫が,徹底的に騙されつづける富農のマザコン跡取り息子を好演していて,豊かに育ったボンボンのアホさ加減を,これまたステロタイプに強調するところが,しつこくて面白い。


そして,炭鉱町のあばら家に戻った音羽信子が語る,「ここに骨を埋める」という覚悟。そこに日本人的な生活者の原点を垣間見せながら,ラストはまたボタ山からサッソウと都会へ出稼ぎに行く性懲りのなさ。


いかにも新藤兼人らしいギトギトとアクの強い風刺劇。

よくあるステロタイプな符号を散りばめながら,これだけ観る者を惹きつける所以は,この作家特有の,善悪の観念を取っ払って人間を見つめる水平な眼差にあるのかもしれません。


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2007/08/27

『黒の試走車』 ~「人間」不在の気味悪さ~

1962年/日本・大映/95分
監督:増村保造
原作:梶山季之
脚本:舟橋和郎,石松愛弘
撮影:中川芳久
出演:
田宮二郎
叶順子
高松英郎
上田吉二郎
船越英二
菅井一郎


この作品は以前にCSかBSでいい加減に眺めていたのですが,いつかちゃんと観直したいと思っていました。

で,たまたま東京滞在中にフィルムセンターの夜の部にかかったので,「のぞみ」を最終まで延ばして観たのでした。


増村保造といえば,個人的には,若尾文子を主演にした妖気漂う女系作品のイメージが強いのですが,本作は自動車業界の熾烈な諜報合戦を題材にしたサスペンスなのです。


「産業スパイ」なんて,法整備が進んだ今では,あまり聞かなくなりましたが,そう言えば,高度成長期には,さかんにその存在をクローズアップされた職種(?)でしたね。


しかし,企画一課と名のついた部署が,そのままスパイ部門だなんて・・。

この作品に描かれているのは,当時でも明らかに犯罪だし,企業が内部に犯罪者集団を抱えているなんて,そこまでのことは実際にはなかったでしょうが,フィクションとして観れば,なかなか面白いと思いました。


田宮二郎と叶順子の,あり得ないほど感情を押し殺した虚無的な演技・・,そして高松英雄演ずる企画部長の,悪魔にでも魂を売ってしまいかねない人物造形の凄み。

全体にイメージ先行型の造形でありながら,そのデフォルメ具合は微妙にバランスがとれて,決してマンガチックでなく,人間性の不在をえぐり出すかのような独特のタッチに仕上がっています。


それにしても,高松英郎(鬼車)怖いですね~。ホントにそれでも人間か!という冷血漢。対する菅井一郎のナマハゲ親父がまた憎たらしい・・

この二人の対決・・というか騙しあい,化かし合いはなかなか見ごたえがありました。


そして,本作は幻の女優(?)叶順子が見られる希少作品でもあります。

叶順子といっても,そのリアルタイムを知っているのは,私より二十歳以上も年長の,今やシルバー世代と呼ばれる人たち。


1950年代の大映ニューフェイスですが,ほんの7~8年で引退・結婚してスクリーンから姿を消してしまったので,私はほとんど知らない女優さんなのです。

この作品では,感情を表に出さないクールな演技でしたが,なかなかチャーミングでしたね。


最後は有りがちなハッピーエンド・・と思ったら,ラストショットに疾走する車のボディを見せつけ,どこか人間不在を暗示するかのような気味の悪さを残して終わります。

あの高度成長の時代にしかできなかった,和製スパイサスペンスの異色作であります。


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2007/08/22

『宮本武蔵 一乗寺の決斗』 ~時代劇史上屈指の殺陣~

1964年/日本・東映京都/128分
監督:内田吐夢
原作:吉川英治
脚本:鈴木尚也,内田吐夢
撮影:吉田貞次
出演:
中村錦之助(宮本武蔵)
入江若葉(お通)
丘さとみ(朱実)
江原真二郎(吉岡清十郎)
平幹二朗(吉岡伝七郎)
河原崎長一郎(林吉次郎)
山形勲(壬生源左衛門)
花沢徳衛(青木丹左衛門)
千田是也(本阿弥光悦)
東山千栄子(妙秀)
東野英治郎(灰屋紹由)
徳大寺伸(烏丸光広)
岩崎加根子(吉野太夫)
高倉健(佐々木小次郎)


吉川英治原作の『宮本武蔵』は戦前から何度も映像化されていますが,時代劇映画をよく知る人の間では,この内田吐夢による宮本武蔵5部作がことに評価が高いですね。


なかでも第4部にあたる本作は,有名な一乗寺下り松での吉岡一門との決闘シーンがあり,必見の名作となっています。


吉川英治の武蔵は,兵法者として剣の道を究めようとしながら,人を殺し続けねばならない苦悩や,断ち切れないお通への想いなど,葛藤を胸に秘めた人間的な描写に醍醐味があります。


本作で面白いのは,岩崎加根子演ずる廓の太夫との一夜のエピソード。

ピンと張り詰めた強さのなかの弱さ,常に「死」を背負った悲愴感を太夫に指摘され,ムキになる武蔵・・

ちょっと理屈が勝った場面でどうかとも思いましたが,深々と降りつもる雪中の庵,その静穏な空気感のなかのサスペンス溢れる演出は見事。


また,いつもの明朗快活な東映娯楽時代劇のイメージとはガラリと異なり,丘さとみや入江若葉など,女優の色香をしっかり肉体感覚をもって表現したのはさすがですね。


そういえば,脇には,千田是也,東山千栄子,東野英治郎ら俳優座の重鎮が名を連ね,同じく俳優座から岩崎加根子を招き,同じ東映でも現代劇で泣かず飛ばずだった高倉健を小次郎に,無名の入江若葉をお通に抜擢。

やはり,それまでの東映時代劇とはどこか違った雰囲気があります。


余談ですが,入江若葉はこの内田吐夢の宮本武蔵シリーズで映画デビューしたのですが,彼女の母,入江たか子も,実は内田に見いだされて映画界に入った(昭和初期の話)という曰くつきであります。


そしてクライマックスは一乗寺下り松の決闘。武蔵一人に対し,報復に燃える吉岡一門総勢70名あまりが襲いかかる凄絶な斬りあい・・

延々20分近くに及ぶそのシーンだけは,セピアを帯びたモノクロ映像に転換します。


丘の上で通暁を待ち術策を巡らす武蔵,そこから見下ろす,下り松と三方にのびる細長いあぜ道・・ その映画的なロケーションが素晴らしく,明け方の薄明かりの中に緊張が高まります。


いざ出陣と,後方の丘から一気に本陣へ斬り込む武蔵,そのアッと驚くショッキングな行動。

細かい足取りで駆けながらのリアルな立ち回りは,豪快さや華麗さというより,まさに切羽詰った緊迫感に溢れた印象。


決闘の最後は,河原崎長一郎に挑まれた武蔵が,人を殺す恐怖に駆られて逃げ惑うという意外な演出。


そしてカラーに戻って,赤く色づいたシダの茂みの中に息づかいも荒くうずもれる武蔵。その奇抜ともいえる画造りは,なかなか衝撃的・・

大勢相手の決闘に勝利した痛快さなどどこにもなく,生き残った・・という感慨ばかりが迫ってきます。


内田吐夢と中村錦之助が5年の歳月をかけ,精魂を込めた大作。これはいつか5部通して観なければと思うやしきりでありました。


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2007/08/18

『サンダカン八番娼館 望郷』 ~映画史に刻まれた墓銘碑~

1974年/日本・東宝/121分
監督:熊井啓
原作:山崎朋子
脚色:広沢栄,熊井啓
撮影:金宇満司
美術:木村威夫
音楽:伊福部昭
出演:
栗原小巻(三谷圭子)
高橋洋子(北川サキ)
田中絹代(北川サキの晩年)
水の江滝子(おキク)
小沢栄太郎(太郎造)
田中健(竹内秀夫)
岩崎加根子(サト)
浜田光夫(矢須吉)


今年,熊井啓監督が亡くなったこともあり,新文芸坐「終戦の日 特別企画」の後半は,熊井監督の追悼特集でした。


おそらく20年以上前に1度だけ観たきりでしたが,ある種,衝撃度の強い作品でもあり,何といっても,元からゆきさんの老婆を演じた田中絹代が印象的で深く心に刻まれていました。


田中絹代は大正末期に十代半ばでデビューし サイレント時代から戦後の日本映画黄金期までを支えた生粋の映画スター。


溝口作品をはじめ,その名演は数え上げればキリがありませんが,中でも本作は,彼女の長い女優歴のうちでも5指に入るものではないかと感じました。

それほどこの作品における田中絹代の演技は素晴らしく,神品のごときものであります。


スクリーンに登場した途端,一瞬にして空気が変わり,わけもなく目頭が熱くなるような感慨が迫ってくるのです。


その華奢な全身からにじみ出るものは,からゆきさんとして波乱・変転の人生を送った女の磨きぬかれた骨董品のようなフォルム。

その飄々とした身のこなし,精妙な表情の変化・・,朴とした戸惑いや邪心のない目の輝き・・

役と限りなく同化し,しばしば,大女優・田中絹代が演っていることを忘れさせられるほど。


単純な「リアリズム」表現ではない「映画の演技」としての一つの到達点であり,この一点こそが,本作の成功の大きなポイントであったことは疑いもありません。


それにしても,回想シーンに登場する高橋洋子もけっこうな熱演ですね。

この人,当時はどちらかというと,アイドル女優的な扱いだったと記憶していますが,もとは文学座の演劇研究所に学んだ人ですから,基礎はあったのでしょうね。(今は作家に転身されてますが・・)


ただ,栗原小巻だけは,もともと舞台女優ということもあってか,セリフ回しにお芝居臭が強く,演技の傾向も70年代的で,今観るとかなり古い感じがしますね。

まあ,これも時代の流れの成せるものなのでしょう・・


概して熊井啓の作品は,映画的な表現の即興性や意外性はないのですが,その確固たる良心と信念に貫かれた演出には破綻がなく,この種の「聞き書き式」の物語では安心して観ていられます。


ラストは,ボルネオの密林に埋もれたからゆきさんの墓地探し。日本に背を向けた墓標が胸に迫りますね。


山崎朋子が歴史の暗部に埋もれゆく真実に迫った執念のルポルタージュ。それを得て告発の映画作家・熊井啓が映画史に刻んだものは・・

日本が近代国家へと邁進するその裏で,遠く南洋の果てに売られ,打ち捨てられていった多くの女たちの墓銘碑。


そこへ大女優・田中絹代が,最期に渾身の演技をもって鎮魂の花を手向けた・・,日本映画史上,特異な位置を占める力作であります。


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2007/08/05

発掘レビュー(6) 『土』

これは「リアリズム表現の極み」ともいうべき,ホントに素晴らしい映画でした。


内田吐夢の戦前の作品といえば,その多くが失われて今では観られないのですが,本作は幸運にも海外のアーカイヴスに残されていたプリントで,不完全ながら垣間見ることができます。


現在2種のプリントが存在しており,一つは戦前に輸出された海外向け短縮版で,戦後,旧東ドイツのアーカイヴスから帰還したもの。こちらは1巻目とラストが失われています。

もう一つは,90年代の末にロシアのゴスフィルモフォンドで発見された版で,終戦前に旧ソ連軍が満州映画協会から持ち帰ったと思しきフィルム。こちらもラストは欠落していますが,東独版にはない場面や1巻目があることで貴重。


私がフィルムセンター観たのは1巻目もラストもない東独版でした。


それにしても,さすがフィルムセンターといいましょうか,事前にも事後にも何のアナウンスもなく,最後プチッと切れた状態で終了して明るくなってしまい,けっこう文句言っている人がいました。(^^;


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『土』 ~失われた日本の残像~

東京国立近代美術館フィルムセンター(2004年3月8日作成)


1939年/日本・日活多摩川
監督:内田吐夢
原作:長塚節
脚本:八木隆一郎,北村勉
撮影:碧川道夫
出演:
小杉勇(勘次)
風見章子(おつぎ)
ドングリ坊や(与吉)
山本嘉一(卯平)
見明凡太郎(平造)


これは民営の興行館にかかることはもうないし,商品としてビデオやDVDで出ることも,BS等で放映されることもまずないでしょう。

なぜと言って,この作品は今や完全なフィルムが存在せず,一番まともなロシアで発見された版ですら,最後の1巻が失われていて,つまりラストがないんですね。


商品の用を成さない資料映像として,東京のフィルムセンターに短縮版が残されているばかりです。(オリジナル版の140分に対しこのロシア版は115分)

(追記)フィルムセンターが実際に所蔵するのは旧東ドイツ発見版のようです。


とは言え,日本国内では長く全く観ることができなかった作品ですから,短縮版でも鑑賞できて幸運と言うべきでしょうか。

今回,フィルムセンターで観たのはなぜか旧東ドイツ発見版で,最終巻のほか1巻目もないというかなり不完全なフィルム(93分,おまけにドイツ語の字幕付)でしたが,しかし,内田吐夢の骨太な作風は十分うかがい知れるものでした。


ともかく,これほど強烈に土俗的な農民映画は初めて観ました。明治期,北関東の一寒村の物語ですが,ここまでリアルに映像化してしまってはネオレアリスモも顔負けです。

ただひたすら,貧しい農村の風土・風俗と這いつくばるような日々の営み,そこに起こる家族の葛藤を描写し,社会的広がりのかけらも無く,小作農民の現実はこんなもんだとばかり,冷厳と突き放してフィルムに焼き付けています。


何しろ人の顔が違うんですね。山本嘉一のおじいさんなんて如何にも「明治」のお百姓の顔で,今いくらがんばったってこんな風貌を表現できる俳優はいないでしょう。

この人は明治10年生まれで,若き日,あの川上音二郎一座に加わって海外公演を繰り返したというから,時代を感じてしまいます。


また,風見章子は今のおばあさんぶりからは想像もつかない若く健気な農家の娘で,何だかこの頃は小林綾子に似ていて,「おしん」とダブってしまいました。


ともかくも最終巻が失われているのは如何にしても残念至極。もう今となってはこんな映画は絶対に作れないのだから,今後は保存に力を尽くしていただきたいと願うばかりです。


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2007/08/03

発掘レビュー(5) 『麦秋』

発掘レビューも5本目ですが,オーソドックスに小津安二郎といきましょう。

2003年に小津安二郎生誕100年を記念して,各地でイベントが催されましたが,特に東京のフィルムセンターでは,11月から翌年1月にかけて,現存する全作品を上映する一大特集がありました。

この『麦秋』は小津作品のうちでも私のもっとも好きな映画で,これをフィルムセンターで鑑賞できたのは幸運でした。


小津作品についてよく語られる,会話場面でのイマジナリーラインを無視した切り返しですが,この作品あたりは,さほど違和感はないように思います。

まあでも,小津の映画というのは,本来は七面倒なことは何もいらない,日本のホームドラマですから,肩の力を抜いて感じる通りに観るのがよいのでしょう。


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『麦秋』 ~しみじみと楽しく~

東京国立近代美術館フィルムセンター(2004年1月18日作成)


1951年/日本・松竹
監督:小津安二郎
脚本:野田高梧,小津安二郎
撮影:厚田雄春
出演:
原節子(間宮紀子)
笠智衆(間宮康一)
淡島千景(田村アヤ)
三宅邦子(間宮史子)
菅井一郎(間宮周吉)
東山千栄子(間宮しげ)
杉村春子(矢部たみ)
二本柳寛(矢部謙吉)


戦後の小津作品の中では,随所にコミカルな演出を取り入れていて,観客を笑わせるシーンが多い点で特徴があります。


今回,久々に劇場で観なおす機会を得ましたが,館内に何度もドッと爆笑が起るリラックスした空気を共有しながら,これは実は楽しい映画でもあるのだということを再認識しました。


ワンパク坊主の描き方が秀逸でもあり,また,家父長的な価値観を引きずった笠智衆の兄が変に真面目くさっているのも何だかおかしくて・・・。

(関係ありませんが)笠智衆がこの時期としては珍しく実年齢相応な役柄なのも特徴的といえるのかもしれません。


この頃の小津作品は,かなり露骨で下世話な会話場面を取り入れる傾向があります。

特に佐野周二と淡島千景の「ヘンタイ」をめぐるセクシャルなやり取り,「ハマグリ好き+海苔巻嫌い=ヘンタイ」など,考えてみると何ともいやらしい会話ではあります。

戦後の価値観の転換期でもあり,この時代に特有のある種の開放感を演出しようとする風潮があったのかもしれません。


また,『晩春』でもそうでしたが,この頃の作品には,若い女性同士の会話を露悪的にはしたなく描く癖があって,原節子も友達同士だとずい分と品のない会話をするわけですが,それが家に帰るといきなり変身して,例によってハラセツ特有の(今の感覚で見ると)過剰にカマトトぶったしぐさと台詞回しに戻るんですね。


この辺は小津作品に特徴的なことですが,男に関しては(笠智衆をはじめ)極めて単純な裏表のない描き方をしながら,女性に関しては,常に複雑な2面性を意識させる演出をするところがあって,終生独身を通した小津の女性観のようなものが感じられるところです。


後のカラー作品などに比べると,例の切り返しの会話など,まだそんなに視線が宙を泳いでいる感じもなく,奇妙な間の狂ったような感覚も小さくて,意外にまだ自然なリズムに近かったことも再確認しました。


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2007/07/30

発掘レビュー(4) 『裁かるゝジャンヌ』

カール・ドライヤーの作品については,2003年秋に有楽町朝日ホール,京橋のフィルムセンター,渋谷ユーロスペースの3館共催による大イベントがあり,劇場でその作品の多くに接する機会がありました。


このとき上映された『・・ジャンヌ』は,オリジナルネガに近い修復版だったこともあり,私としては全く異例ながら,コンビニで前売券を買って,有楽町朝日ホールまで観にいきました。

当時はまだDVD等では観られない代物で,千載一遇のチャンスだったんですね。


朝日ホールはだだっ広い演芸場みたいな空間で,映画を観るのには向いてませんが,サイレントフレーム映写機による本格的な上映でけっこう驚きました。


下記は読んでいて恥ずかしくなりますねぇ(^^; いま観れば,かなり違う見方になったろうなと思いつつもアップいたします。


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『裁かるゝジャンヌ』 ~オリジナル・プリント鑑賞~

有楽町朝日ホール(2003年10月作成)


1927年/フランス/97分
監督:カール・T・ドライヤー
脚本:ジョゼフ・デルテーユ,カール・T・ドライヤー
撮影:ルドルフ・マテ
出演:
ルイーズ・ルネ・ファルコネッティ


ドライヤーのサイレント作品を観たのはこれが唯一ですが,(はっきり言って余計な)ピアノ生演奏付きで観たので,まるで音楽映画のようでした。

しかしながら,ビデオ等では観られないドライヤーの意図に近いオリジナル修復版で,しかも秒速20コマのレッキとしたサイレント映写機での上映(97分)でもあり,これを劇場で観られる機会を得たのはまことに幸運でした。


このオリジナル版が発見されて日の目を見たのは1985年のことで,それまで長く流布していたのは,オリジナルと別のテイクを使用した版やアメリカ製の海賊版なわけですが,私はビデオのほうは観ていないので,まあ比較はできません。


この作品は要するに「顔」ですね。

表情がすべてを物語るなどと言ってしまっては簡単すぎますが,希望から絶望へ,悲しみから恍惚へとワンショットで表情が変化していく様を,カメラはただジッとクローズアップで見つめ続けます。


人間の顔の陰影まで計算されたまさに「表情」がドラマを構成するという,いかにもサイレント的なつくりで,この種の作品の傑作と言われる理由は解かりますね。

これはトーキーではできないでしょう。台詞や音が邪魔になって映像の効果が減殺されてしまうに違いありません。


それにしても最後の火刑のシーン。火にあぶられるジャンヌの苦悶の表情から炎に包まれ黒焦げになる遺骸までを執拗に撮り続けます。

ドライヤーの映像は,基本的にある種のケレン味を基調にしていると考えているのですが,その傾向はサイレント期の作品にも如実に見られることが解かりました。


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2007/07/16

発掘レビュー〔1〕 『人情紙風船』

思うところあって,かつて他サイトの掲示板等に上げた映画レビューを引き上げ,そのうちから目ぼしいのをセレクトして,こちらに転載したいと思います。

と言っても大した意味はなく,これまで映画について書いたものを,このブログに一括しようというだけのことでありまして・・


まだネットに駄文を書き始めた頃のもので,じつに拙く他愛もないのが多いですが,映画を観た当初の感覚を大切にしたいので,多少の文章調整のほかは手を加えず,そのままアップしていきます。

で,取りあえずの第1弾です。


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『人情紙風船』 ~時を超えて「映画」を観られる幸せ~

池袋・新文芸坐にて (作成:2003年9月16日)

1937年/日本/東宝映画
演出:山中貞雄
脚色:三村伸太郎
撮影:三村明
出演:
中村翫右衛門(髪結新三)
河原崎長十郎(海野又十郎)
市川莚司[加東大介](源七乾分百蔵)
霧立のぼる(お駒)
山岸しづ江(おたき)


こんな映画を劇場で観られることに感謝しなければいけませんね。


若干29歳にして戦場に散った山中貞雄の遺作ですが,戦中・戦後の混乱期,多くの日本映画が失われた中で,この珠玉のようなフィルムがちゃんと上映できる状態で保存されていたこと,多少のコマ落ちなどはあっても損傷は小さく,十分にオリジナルの良さを堪能できること。

これは並大抵ではないでしょう。多くの人の努力の賜物だと思います。


時代劇というのは「背景」が古くならないという点で有利なのかもしれない。この映画を観てそう思いました。むしろ舞台装置に関しては今の時代劇よりよくできているように思います。


何せ江戸時代から数十年しか経ていない頃の作品ですから,風俗や建物,道具立てが真に迫っているし,時間の流れや生活のリズムみたいなものが,それらしくゆったりとしていて,いかにも江戸の長屋をのぞき見ているような錯覚に陥ります。


やや低い位置からカメラを仰角に据えたローアングルのショットが多く,人の視線に近いこの撮り方によって,登場人物に対する親近感と臨場感が増幅される感じがします。

さらにカメラは固定で,画面の構図は非常に厳しく調整されていて,このあたりは小津安二郎作品にも共通するものだと思いました。


中村翫右衛門もいいですが,特に河原崎長十郎の浪人が素晴らしい。

顔の表情から手の動きまで繊細に計算されていて,ちょっとした仕草や微妙な表情などで,その人となりや感情まで素直に伝わってきます。

セリフは抑えつつも映像で空気をつくる。これは山中貞雄がサイレント期を経てきたことの一つの証でもあるのでしょう。


全体に省略法をうまく使っているので,ひとつ一つのシーンはゆったりと撮りながらも,リズムよく場面が転換して流れていきます。

結末はちょっと意外だったのですが,結果まで半分見せずに終わってしまうのだから,けっこう思い切った構成といえますね。


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2007/05/26

『ツィゴイネルワイゼン』 ~言葉を無にする映画~

1980年/日本/シネマ・プラセット/145分
監督:鈴木清順
脚本:田中陽造
撮影:永塚一栄
音楽:河内紀
美術:木村威夫,多田佳人
スチール:荒木経惟
出演
原田芳雄(中砂糺)
大谷直子(中砂園/小稲)
藤田敏八(青地豊二郎)
大楠道代(青地周子)


「鈴木清順レトロスペクティブ」からの第4弾は,やっぱり何か書かなきゃダメかな・・(^^;という1本。

日活解雇から10年の沈黙を余儀なくされた清順氏は,スクリーン復帰後,80年代になって,いよいよ本領を発揮するわけですが,この怪異譚はその先陣を切った記念碑的名作ですね。


基本的にここにあるのは,シチュエーションとイメージの連鎖であって,テーマ性はないし,ストーリーは二の次だし,じつに鈴木清順らしい映画と言ってよいのでしょう。

先に映像化したいイメージがあって,ほかのものはそれに追従する形で,物語の展開や脈絡は常に曖昧でしかないんですね。


大谷直子(二役)が演じる二人の女なんて,田舎芸者のときをのぞけば,正妻も元芸者の乳母も基本的に同じ人格と考えてよく,二人に分ける意味もないぐらいですが,しかし,そういうことはただ曖昧さにまぎれて,理屈も何もないわけです。


3人の角付けが醸しだすどこか獣性を帯びた男女の性,大楠道代のハイカラ女がいつもムシャムシャと何か食べている感触。そのグロテスクとエロティシズムの混交したイメージ。

生死をさまよう妹が語る夢想や,終盤の乳母(妻?)と娘豊子の死霊のような描写,そしてレコードに刻まれた死霊の声・・


何か取ってつけたようでありながら,しかし洗練された形式の中に,男女の業の生々しさや漠然とした不安感をただ外面的なフォルムで描き出し,内面の情念のようなことは,スッパリと切り捨ててしまう潔さ。

そこに原田芳雄演ずる極度に虚無的な人格が一役買っています。

そして,藤田敏八のハイカラ紳士だけが,唯一まともな人格として観客の視点に立ち,狂言回しとしての役割を与えられているわけです。


いつものように,シーンのつなぎが唐突で,観ている者の予想を裏切るように,(恐らく意図的に)シーンを途中でプツッと切ってしまうので,どうしても解かりにい感じがしますね。

夢のように儚く途切れてしまうシーンが多いのですが,じつは最初からそこまでのイメージしかなくて,端から脈絡など存在しないのではないかと思います。


誰もが納得できるように「意味」をつないで見せようとしていないため,理屈で「意味」を汲み取ろうとしても,初めから無理だと考えたほうがいいですね。

そこには,言葉や理屈を無力にしてしまう「映画」という表現メディアならではの,ある種の懐の深さを感じることができます。


そんな中でも,やたらと桜の花びらを散らせたがるのが,またご愛嬌なんですね。(^^


清順氏はこれを「娯楽映画だ」と語ったそうですが,やりたいことがやりたいようにできたという意味で,(ご本人にとって)こんな娯楽はほかにはなかったことでしょう。

正直言って,個人的には『陽炎座』のほうが好きなんですが,映画としての完成度という点で,やはり本作をまず上げねばなりますまい。


以下,余談ですが・・

先日のトークショーでは,「あなたの映画にいちばん影響をあたえたものは何ですか?」の問いに,清順氏は,即座に「女だね」と答えられました。

その意味で,清順氏の焦点は圧倒的に大楠道代にあって,大谷直子には,演技はさせてもフォルムにこだわりがない感じですね。

大楠に関しては,原田の目に入ったゴミを取るシーンや,発疹だらけの胸にむしゃぶりついたり,逆さづりにしたり・・,また,腐りかけの水密桃をムシャムシャ食わせたり,ともかく,そのやりたい放題ぶりは目に余る(^^;)ほど・・


こういうところは,かつて『花と怒涛』『刺青一代』で,会社から指定された看板スターの松原智恵子や和泉雅子を適当に使いながら,松竹の脇役女優だった伊藤弘子に熱を入れている感じと通じるものがあります。

次の『陽炎座』では,大楠道代を事実上の主役に立て,すでに引退していたと思しき伊藤弘子を引っ張り出してチョイ役で使ったりして・・,

使いやすさの問題かもしれませんが,何かもっと別の思い入れがあったのでは?と疑ってみたくなります。(^^


【追記】 伊藤弘子という女優さんですが,高名な舞台美術家だった伊藤熹朔を父に,俳優座の重鎮だった千田是也を叔父に持ち,いまは俳優・長谷川哲夫氏の夫人。伊藤熹朔は本作の美術を担当した木村威夫の師匠でもあります。


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2007/05/23

『殺しの烙印』 ~実は解かりやすい映画~

1967年/日本/日活/91分
監督:鈴木清順
脚本:具流八郎
撮影:永塚一栄
音楽:山本直純
出演:
宍戸錠
真理アンヌ
小川万理子
南原宏治
玉川伊佐男


「鈴木清順レトロスペクティヴ」からのレビュー3本目は・・

これを観た日活の社長が「わけの分からん映画を撮るヤツはいらん」と怒り,それがきっかけで清順氏は日活を解雇されてしまったというイワク付きの作品。


ここには鈴木清順という映画作家の本質が見事に表れている印象で,のちの『ツィゴイネルワイゼン』や『陽炎座』にそのまま通じる映像感覚ですね。

この前年に撮られた『東京流れ者』などと比べても,明らかに「破壊」の次元が違いますし,『けんかえれじい』が可愛らしく思えるぐらい強烈にブッ飛んだ怪作であります。


よくこんなものが撮れたと思いますが,主演が宍戸錠で,プログラムピクチャーのうちでもB級扱い(失礼!)だし,やりたい放題やってしまったというところなのでしょうか。

女性のヌードシーン満載で,昭和42年によくぞここまで!! と思いきや,公開時は塗りつぶしオンパレードだったのだとか。そりゃそうでしょうねぇ。(^^


こういう作品を「難解だ」と感じる方は結構いらっしゃるようですが,鈴木清順のこの種の映画は,実は少しも難解ではないと私は思うのです。

もともとショットやシーンごとの形(平たくいえばカッコ良さ)にこだわるタイプで,先に撮りたいイメージがあって,そのために,シチュエーションやストーリーは適当にツジツマを合わせている感じですね。

筋道立てたドラマなんて端から存在しないので,展開のリアリティなど気にしても仕方がないし,登場人物の行動の意味など深読みしようとしても,ただ徒労に終わるだけ・・

イメージの連鎖として,感覚的に観ることが大切になるのでしょう。


ともかくセットが凝っていて,陰影の深い画づくりもキマっており,そこに展開される宍戸と小川真理子の奔放なセックス描写も洒落た感覚・・

そんなダーティな空気が充満する中,殺し屋№3の宍戸が「オレは飯の炊ける匂いが好きなんだ~」なんてやるもんで,妙な毒気にあてられ,知らず独特な世界観にハマって行きます。


印象的なのは真理アンヌの謎めいた存在感。ニコリともせず,ただ,おびただしい蝶の標本(死)に囲まれて暮らす・・

彼女と宍戸が出会って深みにはまり,互いに破綻していくシークエンスは,実にスタイリッシュでエキセントリックな映像美に満ちています。


そして,何といっても南原宏治の怪演ですね。

暗殺をしくじった宍戸は組織から命を狙われ,南原が刺客として送り込まれるのですが,命を狙う者が,なぜか狙われる者の家に居候して,互いにトイレにも行けないほど警戒しあう・・ このエピソードはケッサクでした。


ラストは何もかもが闇に包まれ収束する虚無感いっぱいの幕切れ。清順氏の大暴れぶりには,もはや手がつけられません。(^^;

ともあれ,今回観た日活時代の作品のうちでは,個人的にはいちばんの掘り出し物!

鈴木清順という作家の本質がハッキリと表出しているという点で,実に解かりやすい1本ではないかと思うのです。


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2007/05/14

『悪太郎』 ~職人の画づくり~

1963年/日本/日活/95分
監督:鈴木清順
原作:今東光
脚本:笠原良三
撮影:峰重義
美術:木村威夫
出演:
山内賢(紺野東吾)
和泉雅子(岡村恵美子)
田代みどり(丘野芳江)
高峰三枝子(東吾の母)
芦田伸介(校長)
久里千春
野呂圭介


「鈴木清順レトロスペクティヴ」からの2本目は,今東光の自伝的小説の映画化で,珍しく叙情性の強い青春メロドラマです。


『けんかえれじい』の主人公がケンカばかりの硬派学生なら,悪太郎は不良といっても小説好きの軟派学生。

『けんか・・』がハチャメチャなノリの中に,暗い戦争の影を引きずっていたのに対し,こちらは大正期特有のロマンティシズムをベースにしており,映画の傾向はかなり違います。


全編にわたって「画づくり」が非常に優れている印象ですね。

例えば冒頭のシークエンスで,列車内の高峰三枝子と山内賢を通路をはさむ形で横に並べたショット,座敷で向かい合う高峰と芦田伸介をシネスコ画面の左右に配置したショットなどなど・・

背景の構図と人物配置の様式的な美しさ,奥行きの深さを感じさせる画面構成,特に日本家屋のシーンに漂う重厚な空気感が素晴らしい。

撮影監督は峰重義という人で,美術は木村威夫氏,照明は誰だか分かりませんが,こういう人たちの職人技が結集されたといったところでしょうか。


清順作品の一つの特徴として,人物同士の会話場面のつくり方があります。

基本的に切り返しをあまり使わず,一方の人物だけを長回しで撮りながら,もう一方の人物は画面に登場させず,声だけをかぶせることが多いですね。

例えば本作では,悪太郎が母の言葉を思い出すシーンに,その極端な例が見られます。


そのほか,会話する二人の人物をとても声が届かないほど離して配置してみたり,並んで歩く二人を延々と引きの構図(ロングショット)におさめ,アフレコで声だけのせてみたり・・。

撮影中,役者は自分の登場場面がどう使われるのかわからないのではないかと思いますが,演技よりもフォルムの定着にこだわった撮り方といえるのでしょう。

こういう手法は,のちのちまで見られる鈴木清順映画の特徴ですね。


映画の後半は,山内賢と和泉雅子の一途な恋情表現が基調となります。

京都の旅館で,座卓に並んだ二人が,何か会話を交わすたびに接吻を繰り返すショット,お寺の長い本堂の軒下を,二人が端から端へと何度も折り返しながら歩いて延々と会話をするシーン・・

奇妙なリズムのうちに,観ているほうは漠然と不安を掻き立てられ,帰りの列車で和泉が顔を曇らせた一瞬にムクムクと暗雲が垂れ込め,これがラストへの伏線となります。

和泉が一人で馬車に乗って行ってしまうイメージなんて,唐突ですが泣かせますね。


日本的な叙情性の強い作品で,『けんかえれじい』のような新奇な感覚はありませんが,けっこう鈴木清順的なエッセンスの盛り込まれた佳作ではないかと思いました。

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2007/05/12

『けんかえれじい』 ~「映画的」なノリとリズム~

1966年/日本/日活/86分
監督:鈴木清順
原作:鈴木隆
脚本:新藤兼人
撮影:萩原憲治
美術:木村威夫
出演:
高橋英樹(南部麒六)
浅野順子(道子)
川津祐介(スッポン)
宮城千賀子
加藤武
玉川伊佐男
佐野浅夫
松尾嘉代


「鈴木清順レトロスペクティブ」からの第1弾は,劇画的でハチャメチャなノリとリズムで押し切ってしまう怪作(?)であります。


昭和10年頃の旧制中学を舞台にした青春ドラマで,主人公はケンカばかりしている岡山の中学生。

関東大震災の年(1923年)の生まれという清順監督にとって,昭和初期というのは,ノスタルジックな思い入れの深い時代なのでしょうか。ともかくエネルギッシュでパワー全開といった感じですね。


当時すでに,日活の任侠スターだった高橋英樹の旧制中学生(今でいえば高校生)というのは,いくら何でも違和感タップリですが,映画のノリが,そんなことをどうでもよくさせてしまうのが,いかにも清順流。

マドンナ役は,かの幻の女優・浅野順子(某オオモノ芸能人夫人)で,彼女が見られる希少作品としてもカルトな価値がありますね。


それにしても,あの高橋英樹がマドンナのことを想うたびにムラムラときて,起立した「ナニ」で彼女のピアノをポンポンと鳴らしたりするのにはビックリ!

川津祐介演ずる「スッポン」を師匠にケンカ修行を積んだり,硬派グループ相手に大乱闘を繰り広げんとするクダリなんて,荒唐無稽でまるでマンガ

それでいて,流れる音楽は下宿屋のマドンナが弾く優雅なピアノのメロディだったりする感覚には一種独特なものがあります。


昭和41年に日活スター映画でこれをやったというのがスゴイし,けっこう影響を受けている映画作家もいるのではないでしょうか。


軍事教練で教官に反抗した主人公は,岡山から逃げて会津の中学へ転校,そこでまたまたケンカに明け暮れ・・

しかし,マドンナへの想い断ち切れず,チマチマ手紙を書いたりするのが,硬派学生のヤセ我慢でまた可笑しい。


そして,喫茶店で目つきの鋭い男を見かける例のシーン。何の脈絡もないイメージ先行のシーンで「おやっ?」と思わせながら,サラリと流して,これがラストへの伏線に・・

これについては,映画に思想性や政治性なんか求めたりするある種のファンには,けっこう勘ぐられたそうですが・・

清順氏ご本人によると,「まあ,時代的にこの人を登場させたら面白いんじゃないかと思ってね・・」程度のことらしいです。さすが・・(^^;


そのあと,会津へ別れを告げに来たマドンナが,帰りの雪道で軍靴に翻弄されるシーン。唐突に悪夢にうなされるようなイメージのモンタージュ

こういった過激なジャンプショットも,全編を貫くエキセントリックなリズムのうちに消化され,何も説明されなくても,理屈でなく感覚的に脳髄に浸透していきます。

これも「映画的」ということの一つなのでしょう。


さてさて,この作品には,ワンショットだけですが,すでに清順氏お得意の桜の花びらをヒラヒラ散らせるショットが挿入されているのです。

”出た~”という感じですが,この人,昔からこれがお好きだったようで。(^^

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2007/04/14

『日本の悪霊』 ~恐るべしパロディ感覚~

1970年/中島プロダクション+ATG/90分
監督:黒木和雄
原作:高橋和巳
脚本:福田善之
撮影:堀田泰寛
音楽:岡林信康,早川義夫
出演:
佐藤慶(村瀬勝/落合刑事)
高橋辰夫(鬼頭正之助)
観世栄夫(後藤署長)
榎本陽介(川田部長)
土方巽(リーダー)
堀井永子(夏子)
岡林信康(歌手)


先週末から,シネ・ヌーヴォでは「映画監督・黒木和雄」追悼特集を開催中です。

私の苦手なATG以降作家の一人ですが,できるだけ観ておきたいと思いつつ,取りあえず,先週観たなかから一作レビューを上げておきましょう。


これはちょっと前衛色を帯びた作品ですが,いろいろな意味でパロディの塊みたいな映画ですね。

高橋和巳の原作を私は読んでいないのでわかりませんが,脚本段階でかなり手を加えているらしく・・

佐藤慶が,新左翼崩れのやくざと,かつて少年航空兵だった刑事の二役を演じていて,この二人の入れ替わりを軸にストーリーが展開するのですが,この辺の基本構成からして映画の創作とのこと。


唐突に岡林信康が出てきて歌いだしたり,舞踏家の土方巽が神出鬼没に登場したり,田舎町でのゲリラ撮影によるドキュメンタリー場面を挿入したり・・

中年の男に無邪気に身を任せる出前持ちの少女など,ほんとうに未成年の素人ではないかと思うほど。

この時代のATGでしか撮れなかった,いかにも70年代初頭らしい感覚の作品ですね。


しかし,何といっても本作の凄みは,70年安保闘争のさなか,スタイルとしての「反体制」にクール且つあからさまに一撃を浴びせかけるその感性にあります。

いつの世も,大義より保身にこだわり転向を繰り返す指導層と,ただまっすぐ闘争に突入するしかない尖兵たちの意識の乖離。

シンドロームにハマッたように暴走し破滅する兵士の悲惨・・,戦前の五・十五事件や二・二六事件だって似たようなものだったかもしれません。


戦争も,やくざの縄張り争いも,新左翼の革命運動も,結局,「暴力闘争」の結末などいつも同じ。戦い終われば,末端はハシゴを外され切り捨てられるばかり。

底辺に渦巻くのは,「どうオトシマエをつけるんだ」という怒り。

事実,少年航空兵として強烈なトラウマを負った黒木和雄自身の「オトシマエ」に対する拘りはハンパではないようです。


やはり登場!岡林信康の名曲 『友よ』

荒涼たる工事現場(ひょっとして三里塚?)を背景に,岡林本人がボソボソ口ずさむその曲をよくよく聴いてみると・・

「あ~し~たがない~♪」

新宿西口フォークゲリラから生まれた全共闘世代のテーマソングを,完全にパロディにして,「闘争に明日などない」と唄い切ってしまう先鋭性。

やらせる黒木も黒木なら,やってしまう岡林も岡林で,当時の時代背景からいってもある意味,拍手喝采モノでしょう。


1970年以降,一部過激派は「内ゲバ」とよばれる殺し合いを繰り返し,新左翼運動は一気にソッポを向かれ破綻へと突っ走ります。

そういった時代の先行きを予見するかのような,恐るべきパロディ感覚に満ちた怪作であります。

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2007/04/08

観たけどレビューしなかった映画たち<その1>

今年に入って,日本映画の旧作を観る機会がけっこう多かったのですが,諸般の事情もあってレビューを書かなかった作品がかなりあります。

私自身の覚書を兼ねて,いくつか,簡単なコメントとともにご紹介しておきたいと思います。

****************************************


『痴人の愛』 (1949年/大映京都)

※高槻松竹セントラルにて
監督:木村恵吾
主演:京マチ子,宇野重吉,森雅之
<コメント>
お馴染み谷崎文学の映画化で,昭和24年当時としては,相当に思い切ったエロティシズム(ひょっとしてフェティシズム)表現だったことでしょう。ナオミ役の京マチ子は,まだ銀幕デビュー間もない頃ですが,日本人離れしたボリューム満点の肉感と脚線美はさすが。宇野重さんのサエないジョージさんも秀逸。


『お遊さま』 (1951年/大映京都)

※京都みなみ会館にて
監督:溝口健二
主演:田中絹代,音羽信子
<コメント>
これも谷崎独特な耽美世界の映画化で,前半は優雅で日本情緒あふれる様式美が堪能できます。ただ,すでに四十過ぎの田中絹代を配役したことは,溝口の田中に対する思い入れはともかく,やや無理があったか・・。終盤は溝口らしい運命の残酷を描きつつも,どこか徹底しない印象。


『祇園囃子』 (1953年/大映京都)

※京都みなみ会館にて
監督:溝口健二
主演:小暮実千代,若尾文子
<コメント>
溝口戦前の名作『祇園の姉妹』のパロディ的なお話で,続編と考えられなくもありません。ただ,『・・姉妹』ほど関西的なアクの強い面白みも鬼気迫る緊迫感もなく,戦後の民主主義思潮の中,花街の封建的な世界観もどこか恐さ不足。こういっては何ですが,主演女優の格の違いは如何ともしがたい。


『真昼の暗黒』 (1956年/現代ぷろだくしょん)

※高槻松竹セントラルにて
監督:今井正
主演:草薙幸二郎,左幸子
<コメント>
純粋に映像作品としてよりも,現に裁判で係争中の事件(八海事件)に対して真っ向から冤罪性を主張し,当時センセーショナルを巻き起こして,ついに判決にまで影響を及ぼしたという社会性において特筆されるべき作品です。公判での思い切ったコメディ的な表現が失望と恐怖を増幅し,主人公の最後のセリフが耳に残ります。


『女殺し油地獄』 (1957年/東宝)

※高槻松竹セントラルにて
監督:堀川弘通
主演:中村扇雀,中村鴈次郎,新珠三千代
<コメント>
色調が独特で美しく格調があって良いのですが,近松のこの狂言は,もともと物語が唐突に破綻してしまって,人間味が薄く後味が悪いのでどうも・・。なかでは冒頭の野崎参りのシークエンスが素晴らしい。中村扇雀(現:坂田藤十郎)は不埒な遊び人役がハマっていて良。チョイ役ですが,若き日の桂米朝は必見。


★続きはまた後日

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2007/04/01

「レトロスペクティブ」のオンパレード

昨日から,大阪・九条のシネ・ヌーヴォでは,「溝口健二レトロスペクティブ」が始まっています。

金曜までの1週間だけですから,私のような勤め人はほとんど観に行けないのですが,学生さんたちにとっては,春休み中ですから丁度良いのでしょうね。


まあ,今回の上映作はとっても標準的なラインナップで,個人的にほとんどこれまでに観た作品ばかりだし,観ていなかった『雪夫人絵図』は,昨日,早速観てきましたし・・,クドクド言うのはやめときましょう。(^^


さて,最近は「レトロスペクティブ」と名づけられる特集上映が多いですね。映画の場合は作家個別の「回顧上映」を指すことが多いのですが・・・


シネ・ヌーヴォでは,今年に入って「レトロスペクティブ、イングマール・ベルイマン」から,今回の溝口特集を経て,4月末からは「鈴木清順レトロスペクティブ」というファンには涙モノの特集が始まります。

4月28日~6月1日と1か月あまりに渡る大特集で,日活プログラムピクチャー時代(1950年代!!)の作品から近作まで48作品を一挙上映

前半(5/11まで)は,シネ・ヌーヴォXのほうも使った併行上映のようです。


じつはこの前に,「レトロスペクティブ」とは名づけられていないのですが,「映画監督・黒木和雄」という追悼特集もあるのです。

4月7日~27日の3週間に渡って,全28作品を一挙上映


鈴木清順や黒木和雄というと,正統派の「巨匠」というより尖がった個性的な作家ですが,クラシック映画ファンなら,この期に是非カバーしておきたいところでしょう。


さらに,まだ詳細不明ですが,この夏には「リスペクト新藤兼人」の大回顧上映もやるんだとか。

う~む・・,シネ・ヌーヴォ恐るべし!!

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2007/03/25

『おとうと』 ~優れた技巧は空気と化す~

1960年/日本・大映/
監督:市川崑
製作:永田雅一
原作:幸田文
脚本:水木洋子
撮影:宮川一夫
出演:
岸恵子(げん)
川口浩(碧郎)
田中絹代(母)
森雅之(父)
仲谷昇
岸田今日子


高槻松竹セントラルで先週まで開催されていた「女性映画傑作選13」からの1作です。


市川崑といえば,九十の齢を過ぎてなお現役で活躍中の名匠ですが,これはその最盛期の作品で,『ビルマの竪琴』などと並んでよく知られた1本ですね。

私は市川作品をそんなにたくさん観ているわけではありませんが,その中では,本作がいちばん好きな映画なのです。


市川崑という作家は,斬新な映像感覚で知られていて,この作品もよく見ると,実に多彩な技法が用いられています。

しかし,本作の良いところは,技巧的でありながらそれが鼻につかないこと。

いかにも「うまく撮れたろう」という感じがなくて,ただ素直に映画に浸っていられるところが素晴らしいんですね。

本来,映画の技法とはそうしたものであるべきで,優れた表現技法ほどそれ自体が空気のように目に障らず,映画のリズムに溶け込んで,スッと視覚に浸透するものではないかと思うのです。


そして,この映像センスを支えているのは,何といっても撮影の宮川一夫

大正の雰囲気を出すため,意図的に発色を押さえ気味にしたというカラー・・

残念なことに今回のプリントは痛みがヒドくて,本来の姿ではないようですが,それでも,大正の時代感覚や空気感を,その特異な色調から感じ取ることができます。


ただ一つ気になったのは,この当時の映画で盛んに用いられた映像と対立するような音楽効果。不吉な予兆をイメージとして表現しようとしたようですが,どうにも耳に違和感が残りました。


それにしても,岸恵子がまだ若くて綺麗ですね。

この時,二十七,八だった岸は,すでにイヴ・シァンピと結婚してパリで暮らしており,日仏を行ったり来たりしていたころ。

正直,女学校に通っている娘役としては,いささかトウが立っている印象は否めませんが,しかし,チャキチャキしてカラッとした性格描写は小気味よくて秀逸


川口浩とのテンポのよい掛け合いが素晴らしく,また,田中絹代の継母との微妙な間合いなども申し分ありません。

彼女にとっても代表作といって良いのではないでしょうか。


印象的なのは,姉弟の取っ組み合いの大ゲンカで,赤インクを畳にブチまけるシーン

実はこれは,のちに弟が肺結核を病むという展開の伏線になっていて,血のような赤インクのイメージを残像とすることで,あとのシークエンスでは,あえて吐血シーンを見せずに処理する・・,心憎いばかりの演出。


そして,何といっても驚かされるのはあのラストシーン

岸の勇ましいタスキ掛けシーンを,作中2~3度見せておいた感触が伏線として利いており,身にまとわりつく悲痛感をサッと振り落とすかのように幕を降ろしてしまいます。


いかにも市川崑らしい才気にあふれた映像感覚,日本映画史上に名作の誉れ高き逸品であります。


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2007/03/21

『心中天網島』 ~空間のフェティシズム~

1969年/日本/表現社=ATG/103分
監督:篠田正浩
原作:近松門左衛門
脚本:富岡多恵子,武満徹,篠田正浩
撮影:成島東一郎
美術:栗津潔
音楽:武満徹
出演:岩下志麻(小春/おさん)
中村吉右衛門(紙屋治兵衛)
小松方正(太兵衛)
滝田裕介(孫右衛門)
加藤嘉(おさんの父)
河原崎しづ江(おさんの母)


高槻松竹セントラルの「女性映画傑作選13」から,これも久しぶりに観た1本です。


篠田正浩監督がATGと提携して撮った作品で,60年代的な「前衛性」を前面に押し出した,いわゆる実験映画の範疇にあるものといえるのでしょう。

確かに,奇妙に簡素化された舞台装置や,白黒の強烈なコントラストに彩られた映像は,どこかドイツ表現主義映画を思わせるような趣向に満ちています。


しかし,これは難解な解釈を要求するような映画では決してなく,娯楽作としてけっこう面白く観ることができました。

もともと近松門左衛門の世話物を下敷きにした人情噺で,だいたい文楽(人形浄瑠璃)自体が庶民の娯楽として成立したものですから,当然といえば当然なのでしょう。


何しろ,おびただしいセリフに彩られた実に饒舌な映画であり,いかにも大阪の世話物らしいといいましょうか・・

これから心中しようとする男女が,その道行きの途上,浮世のシガラミに執拗にこだわって言い争うシーンなど,思わず笑ってしまうような「をかし」さに満ちています。


しかし,この映画を最も特徴づけるのは,何といってもその空間表現へのこだわりではないでしょうか。


「映画」というメディアの本質である生々しい現実表現(リアリズム)を一旦解体し,極度の様式化をもって再構築する・・

それは,まかり間違えば,奇をてらったエセ・ゲージュツの烙印を押されかねない冒険でもあったと思います。

しかしこれは,能や文楽,歌舞伎など日本の古典芸能が例外なくたどって来た道でもあり,より現代的な手法をもってそれに挑戦したという点に,本作の独自性があります。


日本家屋でありながら畳も障子・襖もない舞台装置に,強烈なライティングを施し,白黒のハイコントラストな空間を構築・・

墨だけの浮世絵を背景に,梨園の貴公子・中村吉右衛門と,まだ純情派の残り香を漂わせる岩下志麻が下世話な愛憎劇を繰り広げ,生々しいまでのセックス描写のオマケつき。

さらに,小松方正や加藤嘉のような役者に,いかにもという感じでベタベタな演技をさせる。


近松本来の通俗性に,様式性の枠をはめることで,赤裸々でありながら格調を失わない特異な空間描写が成立するわけです。


そして,その異空間を際立たせる手法の一つとして,「黒子」を画面に登場させたことがあります。

歌舞伎や文楽の操演者としての黒子は,劇中では「居ない者」として設定されていますが,この映画の黒子はその存在を強く主張し,黒子のみを主体としたショットが数多く存在し,セリフまで発します。

人の運命を操る「得体の知れない何者か」という存在感と,その奇妙な視覚効果も相まって,これはけっこう利いていると思いました。


私は文楽の舞台は,生では一度きりしか観たことがありませんが,物珍しさの反面,やはり古典芸能なりで,今の私たちにとっては高い壁が存在することは否めません。

現代人が近松作品の本質 ~例えば男女の業の深さ~ に迫るには,より赤裸々に,かつ格調を失うことのない表現手法が要求され,本作は,それに対するこの作家なりの解答であったのではないかと思うのです。


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2007/02/18

イングマール・ベルイマン特集 ~総括と〆~

大阪シネ・ヌーヴォ・エックスで開催されていた「レトロスペクティブ,イングマール・ベルイマン」はもうとっくに終わっていますが,今さらながら,簡単な総括をしておきたいと思います。


今回鑑賞した作品は上映27作品中,下記の14本です。
※レビューを上げたものについては,記事へのリンクをつけています。


『危機』 (1945年)
『愛欲の港』 (1948年) →レビュー
『不良少女モニカ』 (1953年) →レビュー
『愛のレッスン』 (1954年) →レビュー
『夏の夜は三たび微笑む』 (1955年) →レビュー
『魔術師』 (1958年) →レビュー
『処女の泉』 (1959年) →レビュー
『ファニーとアレクサンデル』 (1982年) →レビュー
『リハーサルの後で』 (1984年)
『冬の光』 (1962年)
『夏の遊び』 (1950年) →レビュー
『シークレット・オブ・ウーマン』 (1952年)
『沈黙』 (1963年) →レビュー
『この女たちのすべてを語らないために』 (1964年)
 →レビュー


レビューを書けなかった(書かなかった)作品については,以下に簡単なコメントをつけます。


****************

『危機』:
詩的レアリズム時代のフランス映画モドキな作品で,生みの母と育ての母,その狭間で揺れ動く若い娘,そして娘が恋した男は・・,という図式の愛憎と葛藤のドラマ。
それなりにまとまってはいますが,ベルイマンとしても初監督作で,まだ彼らしさが出し切れていない印象。
マルセル・カルネの影響が指摘されるとパンフにありますが,そういえば物語の設定がカルネの『ジェニイの家』(1936年)と少し似ていますね。


『リハーサルの後で』:
テレビ用に撮られた小品で,登場人物は基本的に3人,場面は演劇のリハーサル室のみ,というシンプルを極めた室内劇。
老演出家と若き舞台女優,そして演出家とかつての愛人と思しきアル中の中年女優,という一対一の会話だけで成り立っています。
二者の間に生じる葛藤と和解,その危ういバランス感,限られた空間に醸しだされるシュールな空気感が印象的。


『冬の光』:
「神の沈黙」3部作の2作目。非常に抑圧的かつ禁欲的なタッチで,やけに勿体つけた印象。ひたすら重苦しく個人的には苦手な作品です。
ただ,牧師の葛藤というモチーフにより,ベルイマンの「宗教」に対する猜疑心があからさまに表現されて興味深くはあります。
イングリッド・チューリン演ずる女教師が露骨に女の業をさらす嫌らしさ,引きの構図に収められたマックス・フォン・シドーの遺体の描写がやけに生々しいです。


『シークレット・オブ・ウーマン』:
3人の妻たちと一人の若い娘の恋のエピソードで綴られるオムニバス形式の作品。妻たちが語る恋物語は三者三様,不倫あり,未婚出産あり・・。
中では,エヴァ・ダールベック演ずる長男の妻の話が楽しく,グンナール・ビョルンストランド演ずる夫と二人してエレベータに閉じ込められ,浮気を問い詰める様をコミカルに描きます。全体にはコメディというよりメロドラマですね。

***************


さてさて,今回は40年代~50年代の初期作品を中心に,60年代や80年代の作品も含めて観ました。

ベルイマンを巨匠たらしめた人生の深淵を探るがごとき重厚な作品よりは,あえてメロドラマやコメディを選んでいます。


何度も書きましたが,ベルイマンという映画作家の多様性には驚かされます

初期作品に見られる瑞々しい感覚的・官能的な描写は素晴らしいし,北欧的な(特に夏の)自然描写や空気感の演出も秀逸。

ずっと以前に『第七の封印』を観たとき,コメディ的な資質のある作家だと感じましたが,今回何本かコメディを観て,やはり優れたセンスを感じました。


神の沈黙や愛の不在のような閉塞的なテーマを前面に出した作品は,私は苦手ですが,しかしこれもベルイマンの重要な一面。

またこういう機会があれば,軋轢や葛藤の多い作品も観ておきたいと思います。


残念だったのは,既に観ている『第七の封印』『野いちご』を後回しにしていたら,結局,観る機会を失ったこと。次に劇場にかかる折には是非とも再見したいところです。


というわけで,これにてベルイマン特集閉幕です。

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2007/02/11

『この女たちのすべてを語らないために』 ~異次元の「死」~

1964年/スウェーデン/76分
監督・脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:スヴェン・ニイクヴィスト
音楽:エリック・ノードグレーン
出演:
ヤール・クッレ
アラン・エードヴァル
エヴァ・ダールベック
ハリエット・アンデション


ほとんど情報を得られなかった日本未公開の作品で,観ようか観まいか迷ったのですが,これはけっこうな掘り出し物,ズバリ面白い映画です。


ベルイマンの初カラー作品で,この時期の彼の作品としては異色ともいえる軽快なナンセンスコメディ。

あまりに深刻で陰鬱な「神の沈黙」映画の『沈黙』(1963年)と続けて観たので,よけいにその軽やかさが印象に残りました。


同じコメディでも,初期の『愛のレッスン』『夏の夜は三たび微笑む』のような優雅で整ったタッチとは違ったスラップスティックな作風・・

でありながら,そこにはしっかり「死」が描かれているところに,ベルイマンらしい一癖があります。


冒頭からいきなり「巨匠」と呼ばれたある男の葬式のシーン。棺を足元から捉える定点ショットに,女たちが次々と出入りし,遺体に向かって何やら意味ありげに,皆が同じ言葉を吐きます。

「似ているけど,何だか別人みたい・・」


ミステリアスな雰囲気を醸しだしながら,そこから4日をさかのぼって,棺の男に「死」が訪れた経緯が語られます。

「巨匠」と呼ばれたのは,ある高名なチェロ奏者。彼のパトロンとなった富豪女が持つ広大な邸宅に,妻のほか何人もの愛人をはべらせ,色欲まみれの暮らしをおくっています。


その邸に,ある音楽評論家が巨匠の伝記を書くためにやってくるところから話は展開。

この音楽評論家が狂言回しとなって,なかなか巨匠に面会を許されなくてイライラしながら,いろんなドタバタを繰り広げます。


観ている側も巨匠の顔すら拝むことができず,今か今かと引きつけられながら・・

邸の運転手と巨匠が似ているというのがウサン臭く,さらにこの運転手が,かつて巨匠と腕を競ったチェロ奏者であったというのがまた怪しい・・。


巨匠にはべる女たちも,みな一癖あって,クネクネと身体をヨジリながらピストルを乱射する女なんて,腹を抱えて笑ってしまうほど。

なかでも,花火が暴発する一連のシーンはもうメチャクチャでデタラメ。ジャン・ルノワールの『のらくら兵』をちょっと思い出しましたが,いつもの抑圧的なベルイマンとは別人のようなハジけたタッチですね。


一方,60年代ごろのコメディ作品に時おり見られた,あえてキャメラ目線を許容し,観客に語りかけるタイプの演出手法が取られ,これはややテレビ的な手法といえるかもしれません。


また,初のカラー作品ということもあり,色の設計には相当凝ったようで,白を基調にやや淡いパステルの色彩を散りばめた押さえ気味のカラー。

その気品ある色調とドタバタな作品内容がいかにも対照的で,ある種のバランスが保たれています。


そして,ラストにいたって,何だそういうことだったのか・・,という裏切りの展開。じつはこの男は「死」によって解放されたのかも・・。いやはや,女は恐ろしい・・。


こういうイロモノ作品は,あまり高く評価されないことが多いのですが,ただ映像リズムに乗っかって,ハラハラしながら大笑いできる罪のない佳品。

「死」をモチーフにしながら,同時期の重苦しいベルイマン映画とは異次元な感触を持った異色作です。


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2007/02/10

『夏の遊び』 ~儚くも美しい青春抒情詩~

1950年/スウェーデン/91分
監督・原案:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン,ヘルベルト・グレヴェニウス
撮影:グンナール・フィッシャー
出演:
マイ・ブリット・ニルソン
ビルイェル・マルムスティン
アルフ・チェルリン


すでに先週,終幕した『レトロスペクティブ,イングマール・ベルイマン』ですが,もう何本かレビューを上げておきたいと思います。ようやくの第8弾です。


これは切ない叙情性に富んだ青春恋歌ともいうべき作品で,ベルイマン映画としてはかなり珍しい部類ではないかと思います。


主人公はもう若くはないバレリーナ。今は希望の見えない鬱々とした日々を送っていますが,ある時,彼女の元に古い日記帳が送られてきたことから,13年の歳月をさかのぼって,ひと夏の哀しい恋の顛末が語られます。

バレエの美しい舞台をアクセントに,うらぶれた楽屋裏の澱んだ空気と,過去の哀しくも美しい想い出を交錯させながら,時空を越えてストーリーは展開します。


マイ・ブリット・ニルソンという女優を本作で初めて観ましたが,ベルイマン映画ではちょっと珍しいタイプなのではないでしょうか。

同時期のハリエット・アンデションみたいな野性的な官能美とも,エヴァ・ダールベックのような高貴で優雅な美貌とも違い,翳りのある役柄がピタリとはまってなかなか良いですね。

そう本数は出ていないようですが,今回観た中では,『シークレット・オブ・ウーマン』(1952年)にも出演していました。


面白いのは,レコードジャケットに描いたマンガが動き出すアニメーション処理,弾むような恋のときめきを表現して見事。

そして,初期的な清新な官能描写もまだまだ健在であります。


何しろキャメラが素晴らしくて,ベルイマン初期作品に特有な北欧の夏の描写力,雲に陰る弱い太陽,透き通る湖面にキラめくゆるやかな陽光,その独特な空気感の演出は深く印象に残ります。


夏の日のひと時のふれ合いと突然襲う悲劇,そして執拗なほどの「死」の描写・・。

遠い過去の傷に苦しみ,今の煩わしい日常に悩み・・,しかし,ラストはトゥシューズの舞いに再出発の希望を託して映画は幕を閉じます。


ベルイマン初期の瑞々しい感覚にあふれた一篇の抒情詩。けだし名編といって良いでしょう。


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2007/02/03

『ファニーとアレクサンデル』 ~大作の宿命~

1982年/スウェーデン/182分(劇場版)
監督・脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:スヴェン・ニイクヴィスト
音楽:ダニエル・ベル
出演:
バッティル・グーヴェ
ペルニッラ・アルヴィーン
アラン・エドワール
ハリエット・アンデルセン
アンナ・ベルイマン


『レトロスペクティブ,イングマール・ベルイマン』からようやく第7弾レビューアップです。


本作には,テレビ版と劇場版があり,今回はコンパクトにまとめられた劇場版での鑑賞でした。

といっても,本来,1時間半程度の小品がほとんどのベルイマン映画としては,3時間を越える破格の長尺。


ともかく,あるブルジョワ一族の男女が,三世代に渡ってワサワサと大挙して登場するため,最初のうち,人物相関がまったくつかめなくて参りました。

彼の親は誰だっけ?,彼女と彼は兄弟なのかな? なんて悩みながら,最後のほうで,ようやく,ああ,この娘はこの夫婦の子だったのか・・といったテイタラク。


あまり説明的な進行をせず,自由に綴っていった結果かもしれませんが,5時間を越える(らしい)テレビ版に比べて,この劇場版は端折らざるを得なかった結果なのだろうと推察します。


それにしても,こういった群像劇で,見慣れない役者がたくさん出てくるのは,やっぱり日本人にはツライですね。

中で芯になるのは,アレクサンデルの祖母。最初のうち頼りなげな印象ながら,徐々にこの人が頼みのツナになっていきます。

知っている役者の中では,(かつてモニカを演った)ハリエット・アンデションのあまりの変貌振りに慄然としてしまいました。(^^;


本作は,ベルイマン的要素の詰まった作品という評価があるようですが,特に『第七の封印』『魔術師』などに通じるケレン味が強く出た作品という印象があります。

ただ,心霊現象や超自然現象をそのマンマ見せたりするのは,50年代の作品とはちょっと違うし,さらにユダヤ商人のおもちゃ箱みたいな家の描写など,いささか見世物的な強度が強すぎる感じがしないでもありません。


一方で,特に前半はいかにも悠揚迫らず,テンポがゆるくて,長い映画が得意でない私としては,かなりツラかったところ。

例によって挿入されるセックスシーンも,80年代の映画らしく赤裸々な描写が先にたって,かつて彼の映画に充満していた清透な官能性やロマンティシズムは,もう見られません。


後半,「いんけん司教」が登場するあたりからは,急激に緊張感が増してストーリーも軽快に動き出します。

この司教は,おそらく厳格な聖職者だったベルイマンの父親の投影だと思いますが,あんな葬り方をするなんて,よほどトラウマが強かったのでしょうね。

で,そのあと緊張感が緩んだところで,アレクサンデルの背後に一瞬,十字架が揺れて見えるシーンにはドキリとしました。

いかにも遊び心満載,やりたいようにやっているといった感じがします。


また,色彩の調整にはかなり凝っているようで,前半の鮮やかな色調と,司祭のもとへ赴いてからのモノトーンを基調にした禁欲的な色調との対比は鮮やかで,空気感の描写はなかなか素晴らしいと思いました。


観終わって,それなりの大作感はありましたが,ただ,この種の映画の宿命として,連続ドラマを短縮して見せられたような感覚は否めず,いつものベルイマン映画のキレはありませんね。

どちらかと言えば,テレビ版のほうを,「三夜連続テレビドラマ」として観る方が,やはり得策なのではないかという気がしました。

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2007/01/28

『処女の泉』 ~死の刻印と生の讃歌~

1959年/スウェーデン/86分
監督:イングマール・ベルイマン
脚本:ウラ・イサクソン
撮影:スヴェン・ニイクヴィスト
出演:
マックス・フォン・シドー
ビルギッタ・ペッテション
ビルギッタ・ヴァルベルイ


「レトロスペクティブ,イングマール・ベルイマン」から,6本目はいかにも巨匠然とした巷でも評価の高い作品の一つ。


ベルイマンといえば,やはり『第七の封印』『野いちご』と並んで,この作品が挙げられることが多いですね。

なかでも本作は,もっとも陰惨な「死」の刻印を持ち,かつ,幻想的な美しいイメージも併せ持っているという逸品です。


スウェーデン中世の民間伝承をもとにした歴史劇で,北欧の古い風俗・文化が興味を惹きますが,一方で冒頭から下働きの女がはく呪詛の言葉などで,まがまがしい雰囲気を盛り立てます。


ある豪農の娘が教会へロウソクを届ける途中,牧童たちに強姦され,命までも奪われるという悲劇。

まだ,あどけなさの残る若い娘の白く透き通るような純潔,それが汚され踏みにじられる理不尽,悲痛な叫び! まさに,世の中,神も仏もないものか・・というやるせなさ。


それをベルイマンは「死体」の描写に生々しく集約します。

実際,この映画の「死体」は 顔に土をかけられても微動だにせず,のどかな森の片隅に命の抜けた骸(むくろ)として横たわるその無残さ,それを一貫して引きの構図で眺めるリアルな描写がじつに印象的。


生前の娘のイメージが強いだけに,よけいに無常観が強く胸に迫ってきます。


何も知らず豪農の屋敷に立ち寄ったかの牧童たちは,娘を殺めたことを両親に知られ・・

マックス・フォン・シドー演ずる父親は憎しみに燃え,牧童たちに復讐の刃を向けます。

シドーが草原に孤立する木を全身でなぎ倒すシーンが素晴らしく,その無念さ,激しい憤りが伝わってくるよう。


しかし,「映画」はここで一気に冷水を浴びせかけてきます。

シドーの巨躯が罪なき子供までその手にかけるとき,罪に対して罪で抗うおぞましさにヒヤリとさせられるのです。

復讐を遂げた父親が,土にまみれた娘の遺体を抱き,己が罪をふり返るとき,その悲嘆と悔恨の激しさ・・。


最後に「泉」を湧出させてしまったのは,民間伝承にならったのでしょうが,こんこんと湧き出す「泉」は宗教的な奇跡というよりは,どこか巧まざる自然の恵みを思わせます。

これは,無神論者だった(とされる)ベルイマンが,本質的に持っている「生(性)」の讃歌とでもいうべきものでしょうか・・。


冒頭の「暗」からエンディングの「明」への鮮やかな反転。ベルイマン最盛期,まさに「巨匠の仕事」と呼ぶにふさわしい充実の名編といってよいでしょう。

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2007/01/21

ベルイマン特集 5分の3終了

さてさて,大阪シネ・ヌーヴォで開催中の「レトロスペクティブ,イングマール・ベルイマン」も全5週のうち3週を終了いたしました。


私が昨日までに観た作品をザッと挙げておきますと・・

『危機』 (1945年)
『愛欲の港』 (1948年) →レビュー
『不良少女モニカ』 (1953年) →レビュー
『愛のレッスン』 (1954年) →レビュー
『夏の夜は三たび微笑む』 (1955年) →レビュー
『魔術師』 (1958年) →レビュー
『処女の泉』 (1959年) ※再見
『ファニーとアレクサンデル』 (1982年)
『リハーサルの後で』 (1984年)
『冬の光』 (1962年)
『夏の遊び』 (1950年)
『シークレット・オブ・ウーマン』 (1952年)

以上12本,観た順に上げました。


基本的に初期の作品で未見のものを中心に観ています。早い時期の作品には,その作家の本質が明瞭に投影されることが多いと考えているからです。

一般に,国際的に知名度が上がり,大資本が入ったり,映画祭で賞を期待されるようになると,作品の傾向が変わってしまうのは,映画の世界ではよくあることですね。


ベルイマンに関しては,巨匠としての地位を確立した『第七の封印』や『野いちご』,『処女の泉』等ではもちろん充実した仕事を残していますが・・
初期作品にはまた違った面白さがあり,本来の性向がよく出ているし,作家として歩んできた道のりも垣間見ることができます。


ここまで観てきて感じることは,実に多才な映画作家であるということ。


あと2週残っていますので,もう何本か観ておきたいと思っています。

レビューが溜まる一方でツライのですが,ここまできたら,もう開き直って観るだけ観るしかないですね。(^^;


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2007/01/20

『魔術師』 ~幻想から現実へ,暗から明へ~

1958年/スウェーデン/97分
監督・脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:グンナール・フィッシャー
出演:
マックス・フォン・シドー
イングリッド・チューリン
グンナル・ビョーンストランド
ビルギッタ・ペテルスン


「レトロスペクティブ,イングマール・ベルイマン」から,ようやくの第5弾です。

これは,ちょっと変わった趣向の作品で,神の沈黙や愛の不在,老いと死,等々・・テーマ性を云々されることの多いベルイマン映画の中では,取り立てて何を主題とするでもなく,映画自体のトリッキーな構成で意表を突くといった珍しいタイプの作品です。


ときは19世紀中葉,ストックホルムへとやってきた旅回りの魔術師一座が,検問にかかって拘束され,領事や警察署長,医師の尋問を受け,ひどく辱められ・・


冒頭から謎めいた思わせぶりな描写で,妖しげな魔術師一行の道行きを追います。

マックス・フォン・シドー演ずる魔術師が,黒髪のカツラを被り,つけ髭に化粧を施して一言もことばを発せず,その妙に苦悩を秘めたような表情が,どこか悪魔的で謎を深めています。

イングリッド・チューリンの男装がまた意外性に満ちていて,途中までチューリンだと気づかないほど。


そして,霊能者かと思しき不気味なおばあさん,死の淵から甦った男など,大いにケレン味を見せながら,どこか超自然的で幻想的な感覚を盛り上げています。


その一方で,魔術師を誘惑する領事夫人やおばあさんの媚薬に群がる女中たちなど,ベルイマンらしい淫靡な描写も見られ,初期のような官能性はありませんが,話に厚みを加えています。


見どころは,グンナル・ビョーンストランド演ずる医師を,奇術的なワナにはめるシークエンス。モノクロ映像の陰影の深さと鏡を使ったトリッキーな描写が鮮烈で印象的です。


マジカルで思わせぶりな演出をしながら,シドーやチューリンがカツラを脱ぎ,メイクを取ったあたりで「オヤッ」と思わせ,チラチラと少しずつタネをばらしながら,ある時ついにすべてが暴かれ,観客は呆気に取られるといった趣向。


舞台裏が露呈されたあとのシラけた感触,魔術もアヴァンチュールも,何もかもが一気に色褪せて,幻想から現実に引き戻される瞬間のインパクト。

さらにエンディングでは,暗から明へと鮮やかに転換し,重苦しさを一気に吹き飛ばしてコメディとして終息させる作劇の妙。


小品ながら,なかなか構成が凝っており,マジックを観るように肩の力を抜いて観られる不思議で魅惑的な逸品です。

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2007/01/17

『夏の夜は三たび微笑む』 ~白夜に交錯する恋愛模様~

1955年/スウェーデン/104分
監督・脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:グンナール・フィッシャー
出演:
グンナル・ビョーンストランド
ウラ・ヤコブソン
エヴァ・ダールベック
ハリエット・アンデション


「レトロスペクティブ,イングマール・ベルイマン」からの第4弾は,同じ艶笑コメディでも,スクリューボール的な『愛のレッスン』とは違って,クールで優雅なヨーロッパらしい作品です。


映画を良くご存知の方は,どうしてもジャン・ルノワール『ゲームの規則』(1939年)との類似性を指摘したくなるのではないでしょうか。私も観ながら,そう感じました。

確かに共通性が多くて,そこに描き出される抑えようのない男女の色恋の綾,婚姻関係など気にもしない奔放な三角関係の構図など・・,

ベルイマンはきっと『ゲームの規則』にインスパイアされたにちがいない,と疑ってみたくなりますね。


しかし,ルノワール流のどこまでも奔放で,スラップスティックで,即興的なモーションの面白さに比べると,本作はスマートに整理され,話の筋も整っていて,計算され尽くしている印象があります。

ルノワール並みにスケベはスケベなんですが,洒落たスウィートな感覚の演出で,スラップスティックさはないですね。


弁護士と年の離れた若妻,若妻に想いを寄せる先妻の息子,その息子を誘惑するメイド,かつて弁護士の愛人だった女優,女優にご執心の伯爵,そして孤独な伯爵夫人・・。

エヴァ・ダールベック演ずる女優デジレーが要となり,女4人,男3人のさまざまな絡み合いで見せる作劇の楽しさは秀逸です。


ある時,デジレーは,弁護士とヨリを戻そうと一計を案じ,母親の屋敷に関係者一堂を招待します。

白夜の怪しげな薄明かりのもと,もつれた色恋の糸が徐々に解きほぐされ,本来,愛し合うべき者同士が結ばれていく一夜の恋愛劇。

人が大勢登場する割りには,役者が個性的で役づくりも申し分なく,人物の相関はじつに明瞭。この種の群像劇にありがちな分かりにくさはほとんど感じません。


巧みに伏線を張りつつ,落としどころを心得ていて,ベッド移動の大仕掛けなトリックやロシアン・ルーレットの顛末など,ハラハラしながら楽しくて笑ってしまいますね。


一方で,弁護士と年の離れた若妻とのラブシーンや,若妻とハリエット・アンデションのメイドとのちょっとレズビアンチックなイチャつきなど,初期作品に特有の官能描写は,この作品ではまだ健在です。


ベルイマンの脚本家としての技と,映画作家としての感性が渾然一体となった上質な恋愛喜劇。一見の価値ある名編といってよいでしょう。


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2007/01/15

『愛のレッスン』 ~北欧流変化球喜劇~

1954年/スウェーデン/92分
監督・脚本:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:マッティン・ボディーン
出演:
グンナル・ビョーンストランド
エヴァ・ダールベック
ハリエット・アンデション


「レトロスペクティブ,イングマール・ベルイマン」からの第3弾は,初期のいわゆる艶笑コメディの1本です。


ベルイマン作品でも喜劇らしい喜劇を観たのはこれが初めてだったのですが,さすが脚本がよく練られている印象ですね。

これは,北欧流のスクリューボールコメディとでもいうべき作品で,多分に不道徳な話ではありますが,どこかエルンスト・ルビッチやレオ・マッケリーの作品にも通じるようなスマートで洒落た感覚に特徴があります。


アメリカのスクリューボールと違うのは,やはり男女関係の奔放さ。夫も妻もベタベタと不倫・・みたいな乱脈ぶりが,まるで当たり前であるかのようにサラリと描かれていること。

1930~50年代前半ぐらいのアメリカ映画では,まず許されなかったシチュエーションでしょう。


スクリューボールコメディ自体が,戦前・戦後のアメリカ映画を支配した厳しいプロダクションコード(ヘイズコード)の隙間をすり抜けるところから誕生した(らしい)ことを思えば,何とも皮肉な話ではありますが・・

変化球を投げつつも,禁欲的・道徳的な枠組みなど気にせず,なお且つイヤらしさをまったく感じさせない・・,これぞ北欧流スクリューボールといったところではないでしょうか。


一方,洒落た感覚を保ちながらも,スラップスティック(ドタバタ)な面も併せ持っていて,熊みたいな男と淑女が大喧嘩になり,皿をまとめて割ったり,ヒステリックな叫び声を上げて襲い掛かったり・・。

そういった点でも,アメリカ流スクリューボールとはまた一風変わった趣きがありますね。


全体に構成や演出が凝っており,妻と別居中の産婦人科医が列車に乗ってコペンハーゲンへ行く途上,ある婦人と出会うところから,回想によって過去のいきさつが語られていくのですが・・

観客にさえイッパイ食わせるような洒落た会話が絶妙だし,あまり大笑いはしないけれど,クスクス笑いで心ゆるむといった感じですね。


この種の喜劇のご多分に漏れず,セリフが非常に多いのですが,のちの作品に見られるような教訓的なヤボったさは微塵もなく,煩雑さはまったくありません。


結局,すべて収まるべきところに収まるエンディング。そこへ付け足しみたいに登場する愛のキューピッドには笑っちゃいました。(^^


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2007/01/13

『不良少女モニカ』 ~北欧の夏は果かなし~

1953年/スウェーデン/92分
監督・脚本:イングマール・ベルイマン
原作:ペル・アンデルス・フォゲルストレム
撮影:グンナール・フィッシャー
出演:
ハリエット・アンデション
ラルス・エクボルィ
ヨーン・ハリソン


「レトロスペクティブ,イングマール・ベルイマン」からの第2弾は,ベルイマンにこんな作品があったのか!というぐらい衝撃度の強い作品。


ほとんどヌーヴェル・ヴァーグの作品を観ているような感覚で観ることができます。

ゴダールはこの映画を激賞したそうですが,確かにそうなのでしょうね。ヌーヴェル・ヴァーグ作家たちに影響を与えたことには疑いもありません。


モニカ役ハリエット・アンデションの奔放に裸体をさらす瑞々しい演技・・,ばかりで語られがちな作品ですが,もちろん,それだけではありません。

のちのフランス・ヌーヴェル・ヴァーグと異なるのは,何といってもその背景となる北欧の豊かな自然描写の魅力


ただアクセクと働く毎日に嫌気がさした19歳の少年は,モニカという少女と出会って恋に落ち,二人で街を捨て,モーターボートでうら寂しい小島へと渡ります。


薄い陽光の差すスウェーデンの夏,ゆるやかな岩石海岸で若い男女が戯れる瑞々しい描写は卓抜。

北欧の夏というのがどのような季節なのか,実体験などないのですが,映像から空気の感触が伝わってくるような力がありました。


二人が街をあとにするシーンでは,徐々に街なみが変化していく様を,運河を走るモーターボートからの主観ショットをつないで見せます。

鉄橋の下を抜け,人工の造形物を岸辺に眺めながら,自然豊かな離れ小島へとやってくるウキウキするような快感。


しかし,ひと夏の奔放な暮らしは,思わぬ事態を引き起こし,少年はモニカを連れて街へと戻ることになります。

往きと同じくボートからの主観ショットで見る街,グロテスクな建造物が迫り,黒い煙を吐く船が行き交い・・

まるで怪物の住処へと入っていくようなその描写は,来るべき崩壊の予兆でもあったのでしょう。


少年とモニカは一旦は結ばれますが,『愛欲の港』と違って,瑞々しい愛情描写から,急転直下,冷徹に突き放すようなタッチとなり,ストーリーは思いがけず破局へと向かいます。


旧世代と若い世代との確執,既成社会に順応できない葛藤がモチーフになる点では,『愛欲の港』と似通っていますが・・

将来に希望を託して終わった『愛欲・・』に対し,本作ではベルイマンは誰の味方もせず,ただ無軌道な若者がたどり着く現実を,乾いた視点で露呈していきます。


大自然の中であれほど純粋に愛し合えた男女が,文明生活へ戻った途端に破綻を来たしてしまうその不条理。それは現代社会が抱える歪みをクールに暴き出すかのよう。


原題は『モニカといた夏』

青春の熱情とその終息を,北欧の果かない夏になぞらえるかのようなベルイマン初期の秀作であります。

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2007/01/11

『愛欲の港』 ~ほとばしる官能と共感~

1948年/スウェーデン/93分
監督・脚本:イングマール・ベルイマン
原作:ウッレ・レーンスベルイ
撮影:グンナール・フィッシャー
出演:
ベングト・エクルンド
ニーネ・クリスティーネ・ヨンソン
ベルタ・ハル


シネ・ヌーヴォXで開催中の「レトロスペクティブ,イングマール・ベルイマン」から,レビュー第1弾は,ベルイマン初期の愛憎メロドラマです。


『危機』(1945年)と連続で観たのですが,監督処女作の『危機』が古いフランス映画モドキで,変哲のない作品だったのに対し,わずか3年後の本作は,同時代的にはかなり斬新な作風を示している印象があります。


船員をやめて沖中師になった青年が,港町で,母親との確執に苦悩する少女と知り合って恋に落ちますが,少女が感化院(少年院みたいなもの)の出身だったことから,気持ちに行き違いが生じだし・・。


旧世代と若い世代の覆いようのない確執,逸脱する者に対する偏見と差別,その絶望的な距離感を乾いたタッチで厳しく描き出しています。

その一方で,当時まだ30歳になるかならないかのベルイマンは,若い世代に対する共感とエールをこめるかのように,ラストは将来に希望を託して終わるのです。


要所に挿入される港町でのロケーションがなかなか良いですね,北欧のゆるやかな外光がフィルムに潤いをあたえ,ドキュメンタルな中にも下卑た感じはまるでありません。

意外に長回しを多用していて,キャメラを動かしながらの展開的なショットが多いのですが,こういった芝居を切らない演出手法は,ベルイマンが演劇の世界から来た人であったことと無縁ではないのでしょう。


そして,何をおいても印象的なのは,男女のラブシーンにおける執拗なほどの官能描写

性行為そのものをアカラサマに映像化することなど御法度の時代ですから,ヘンな話,すべては「接吻」シーンに集約されてくるわけです。

若い男女が,頬を寄せ合い唇を重ねる瞬間にほとばしる情愛・・,その愛欲の表現には,イヤらしさの欠片もありません。


こういった瑞々しい映像感覚は,のちの巨匠ベルイマンのイメージからは遠いし,また,同時期のフランス映画における綺麗に整えられたメロシーンとも違います。

もちろん,ヘイズコードにガンジガラメにされていた当時のアメリカ映画には,こんな映像はまず見られないですね。

この種の独特な官能描写については,私がこれまで観たうちでは,初期の『夏の夜は三たび微笑む』(1955年)あたりまでは見られるようです。

まだ,これから再確認せねばなりませんが,恐らく『第七の封印』(1956年)以降の名作群では影を潜めてしまった印象があります。(少なくとも『魔術師』と『処女の泉』には見られない)。


映画作家の初期作品に特有の清新なラブストーリー,ラストも清々しい佳作であります。

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2007/01/04

『都会のアリス』 ~映画に浸れる幸福感~

1974年/西ドイツ/112分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴィム・ヴェンダース,ファイト・フォン・フェルステンベルク
撮影:ロビー・ミュラー
音楽:CAN
出演:
リュディガー・フォグラー
イエラ・ロットレンダー
リサ・クロイツァー


新年レビュー始めは,ナナゲイ「BOW 30th 映画祭 in OSAKA」から,ヴィム・ヴェンダースの記念すべきロードムーヴィー第1弾です。


主人公は,アメリカ旅行記を書くため1か月もアメリカ各地をさすらいながら,何も書くことができず,ただポラロイド写真ばかり撮っていたドイツ人青年。

ドイツへ帰ろうとした彼は,ふとした偶然から,母親に置いていかれた少女アリスと旅をすることに・・。


何といっても,モノクロのザラついた画面のなかに綴られるノスタルジックな情景描写の妙

人物の背後を流れるニューヨークの乾いた街並み,ホテルの窓から見る白々としたネオンの寂寥,そしてアムステルダムを経て,故郷ドイツの温もりある街並みへと連なる風景,その空気感の心地よさ。

全編がショットの魅力にあふれ,映像に浸れる幸福感とはこういうことだというお手本のような作品ですね。


やたらとジュークボックスやロックミュージックに拘ったりするのは,この作家のアメリカ文化への憧れを象徴するものでしょうか。

しかし,かの地にあって所詮はストレンジャーでしかない作家の心情は,非人間的な文明のもたらす孤独感と疎外感のうちに,どこに行っても同じ風景しか捉えられず,「何も見ることができない,何も聞こえない」という主人公のセリフに集約されています。


そして,ニューヨークから故郷ドイツへと移り変わる風景のなか,コマシャクレタ少女との心通じあう瞬間に,主人公は心に潤いを取り戻し,見たり聞いたりしたことを「落書き」できるようになっていきます。


何せ,この少女のフォトジェニックな魅力が頭抜けていて,画面を一気にカッさらってしまうほど。

ヴェンダースの映画には時おり感じることですが,彼はじつはこの娘が撮りたかったのではないかというぐらい,執拗にキャメラはこの少女を追います。


撮影に入る際,スクリプトがどの程度完成されていたのか分かりませんが,ストーリーテリングなど気にせず,漂泊するストレンジャーの視線をもって即興的に切り取っていったという趣きですね。

ハリウッド的な映画作りとは180度異なった作風で,後年,フランシス・コッポラによってハリウッドに招かれた際,結局うまくいかなかったのもムベなるかなといったところ。


同時期に同じくモノクロで撮られたアメリカ映画『ペーパー・ムーン』(1973年)とは,シチュエーションに似たものを持ちながら,じつに対照的で,比べて観られるのも面白いかもしれません。


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2006/12/19

年始早々 イングマール・ベルイマン大特集!

年末から年始にかけてのクラシックシネマ特集上映の追加情報です。


大阪九条のシネ・ヌーヴォでは,

年明け早々から併設のシネ・ヌーヴォXにて,

「レトロスペクティブ、イングマール・ベルイマン」という特集上映が組まれます。

期間は1月1日~2月2日の1か月間で,上映作品は以下の29作に及びます。


『もだえ』 (1944年) ※脚本のみ
『危機』 (1945年)
『愛欲の港』 (1948年)
『エヴァ』 (1948年)
『渇望』 (1949年)
『歓喜に向かって』 (1949年)
『夏の遊び』 (1950年)
『シークレット・オブ・ウーマン』 (1952年)
『不良少女モニカ』 (1953年)
『愛のレッスン』 (1954年)
『夏の夜は三たび微笑む』 (1955年)
『第七の封印』 (1956年)
『野いちご』 (1957年)
『魔術師』 (1958年)
『処女の泉』 (1959年)
『悪魔の眼』 (1960年)
『鏡の中にある如く』 (1961年)
『冬の光』 (1962年)
『沈黙』 (1963年)
『この女たちのすべてを語らないために』 (1964年)
『仮面/ペルソナ』 (1966年)
『夜の儀式』 (1969年)
『叫びとささやき』 (1973年)
『ある結婚の風景』 (1974年)
『秋のソナタ』 (1978年)
『夢の中の人生』 (1980年)
『ファニーとアレクサンデル』 (1982年)
『リハーサルの後で』 (1984年)
『不実の愛、かくも燃え』 (2000年) ※脚本のみ


最初の『もだえ』と最後の『不実の愛、かくも燃え』はベルイマンの監督作ではなく,脚本がベルイマンなんですね。

そのほか,シネ・ヌーヴォ本体のほうでは,ベルイマン久々の監督作『サラバンド』(2003年)も上映される予定です。


「シネ・ヌーヴォX」はデジタル上映専用のビデオシアターということで,フィルム上映ではないようですが,行ったことがないので,どういった感じかは観てみないと解かりません。


それにしても,ベルイマンだけでこれだけの特集を組むというのは滅多にないですし,千載一遇のチャンスでしょうね。

『第七の封印』や『野いちご』,『処女の泉』あたりはたまに見かけますが,上記のラインナップは大変なもので目がくらみます。


このほか,京都みなみ会館では1月6日~29日の間,例の「溝口健二の世界」の特集があって,こちらにも何本か観ておきたい作品がありますし・・。

先日ご紹介した第七藝術劇場「BOW 30th 映画祭 in OSAKA」も時期が重なるんですよね。


う~ん,悩ましい。

なんで時期をもっとズラしてくれないんだか・・。


こういう映画を観るファンって,特に関西では限られてますからね。

休日しか行けない人も多いでしょうし,さすがに大晦日やら正月まで家族ほうって一人で映画観に行くのは無理だし,半月ぐらいずつズラしたほうが集客上は得策だと思うのですが・・。

ともかく,こりゃかなり綿密にスケジュール調整しないと大変なことになりそうで,今から頭を痛めておりまする。(^^;


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2006/12/17

B級ホラーならではの手練 ~見せない恐怖の演出~

しばらく前ですが,パソコンテレビGyaOのムーヴィーリストにけっこうレアな1本を観つけました。


『蝿(ハエ)男の恐怖』 (1958年/アメリカ)


まあ,B級SFホラーマニアの方々には,何を今さら・・といったところでしょうねぇ。

私にとっては,子供のころからテレビ放映で3回は観た思い入れのある作品で,どこかで再見できないかと探しながら,劇場にかかることはまずないし諦めていました。

で,ふだんネットで映画を観ることなどないのですが,これを見つけたときは嬉しくなって,思わず観てしまったのでした。(^^;


ご周知のとおり,デヴィッド・クローネンバーグの『ザ・フライ』はこの作品のリメイク版として撮られたものです。

両作とも人間とハエの遺伝子の混交という事故を発端としながら,『ザ・フライ』がヒトからハエに変わっていく「変容の過程」に力点を置いていたのに対し,オリジナルの本作は,突然,蝿男と化した主人公とその妻の苦悩や葛藤に焦点を当てています。


特殊メイクやSFXの発達によって映像化の幅が格段に広がった分,皮肉にもあからさまな見世物志向に墜せざるを得なかった『ザ・フライ』の凡庸な恐怖・・。

それに対し,カブリモノメイクの安っぽさを補うかのごとく,ギリギリまで見せないことに注力した本作の心理的な恐怖演出は今も色褪せていません


頭部を黒い布でおおった男が,自己の存在そのものに苦悩しながら地下の研究室を歩き回る様の恐ろしさ。

唐突にハエのそれと化した黒い左腕を見せ,それによって頭部の悲惨さを連想させる心理的圧迫感。

最初に観たとき,まだ小学生だった私は,もう恐くて恐くて仕方がなく,いつあの布が取り払われてオゾマシイ頭部が露出されるのかと,目を覆わんばかりに縮こまっていたのでした。


そして,復元実験に成功したとカン違いした主人公の妻が,いきなり頭をおおう布を引きはがした一瞬の心臓が飛び出るばかりの衝撃。

「ショッカーの怪人か?」と見紛うばかりのハエのカブリモノが露わになった瞬間の妙な脱力感。


その落差こそ,この作品をカルトな珍品として長く映画史に刻み込んだ要因の一つかもしれないですね。


そして,B級ホラーファンの間では語り草となっている,「頭の白いハエ」の正体が明らかになるあのショッキングなラスト。

回想形式によるミステリアスな語り口と呼応して,これはちょっと忘れられないシーンの一つです。


出演者は,主人公夫妻よりもむしろワキの方が充実していますね。

主人公の兄役は,当時のホラー作品ではお約束のヴィンセント・プライス


そして,今回初めて気づいたのですが,最後にクモの巣に石を投げつける初老の警部役の俳優,そのドスの利いた声・・。あれ,この人知っているなと思ったら・・。

何とハーバート・マーシャルだったんですね。

H・マーシャルといえば,戦前から活躍した渋いバイプレーヤー。

大女優の主演作において,その引き立て役の情けない夫みたいな役が多かった人ですが,エルンスト・ルビッチの『極楽特急』(1932年)では洒落た泥棒紳士の役で好演。

ヒッチコックが渡米第2作としてインディペンデントで撮った『海外特派員』(1940年)では,敵の黒幕を演じて主役を圧するほど貫禄タップリ。悪役が良いと映画が引き締まります。


この人,じつは第一次大戦に従軍して片足を失い,義足を使用していたらしいのですが,若いころはそんなことを感じさせなかったですね。

本作のときにはもう70歳近いですから,さすがに立ち居ふるまいにぎこちなさが出ていますが,それでも年齢に応じた渋く味わいのある演技を見せてくれました。


B級扱いながら単なるゲテモノ映画から一歩踏み越えたカルトの名編

もし,ホラー・SF好きで未見の方がいらっしゃれば,是非観ていただきたい逸品です。


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2006/12/03

いよいよ師走!年末年始クラシック映画特選

さて,いよいよ師走に突入し,何かと慌ただしくなってまいりましたが,この年末年始の関西地区・クラシック映画情報をお届けいたします。(関西以外の方々スミマセン!)


■昨日から大阪・テアトル梅田で「ヴィスコンティ生誕100年祭」が開催されています。 →劇場公式サイト

期間は12/2(土)~12/15(金)の2週間。

前にもご紹介しましたが,上映作品は以下の3本です。

『山猫 イタリア語・完全復元版』 (1963年/187分)
『ルートヴィヒ 完全復元版』 (1973年/237分)
『イノセント 完全復元・無修正版』 (1976年/124分)

なかではやっぱり『山猫』ということになるでしょう。

ただ,このイタリア語・完全修復版は,以前に早稲田松竹で観たときカラーの褪色がヒドくて残念だった思い出があります。その辺をあまり期待しなければおススメですね。


じつは昨日,早速,『ルートヴィヒ 完全復元版』を観にいってきました。

オリジナル公開時より1時間も長い237分の大長編で,ヴィスコンティの死後に,関係スタッフが初期の編集版に近づけようして再現したらしいのですが,ホントにそんなことする必要があったのかというのが率直な印象。

ハッキリ言って長過ぎました。観にいく際は体調と相談が必要でしょうねぇ。


■梅田ガーデンシネマでは,今週末から没後五〇年特別企画「溝口健二の映画」が開催されます。 →劇場公式サイト

期間は12/9(土)~12/22(金)の2週間。

このシリーズは本来19本(溝口の監督作ではない関連作『大阪物語』を含む)のパッケージのはずなんですが,今回の梅田版は何故かそのうち10本のみのセレクト。

『山椒大夫』,『雨月物語』,『近松物語』あたりは当然のごとく入っていますが・・。

貴重な戦前作をすべて外してあって,しかも溝口作品中でも重要な1本である『西鶴一代女』はないし,鑑賞機会の少ない『雪夫人絵図』や『武蔵野夫人』もしっかり外していて,オヤオヤこれはどうしたもんでしょうか・・。

じつは関西地区では,来春1月に京都みなみ会館でも同じシリーズがかかるので,個人的にはそちらに期待しています。


■そして何といってもこの年末年始の目玉は,第七藝術劇場(十三)で予定されている「BOW 30th 映画祭 in Osaka」でしょう。 
→劇場公式サイト

期間は12/30(土)~1/12(金)の2週間(元旦は休館)。

まずは,以下のラインナップをご覧ください。


ヴィム・ベンダース監督(6作品)
『都会のアリス』 (1974年/ドイツ/112分)
『まわり道』 (1975年/ドイツ/104分)
『さすらい』 (1976年/ドイツ/176分)
『アメリカの友人』 (1977年/ドイツ/126分)
『パリ、テキサス』 (1984年/ドイツ/148分)
『ベルリン・天使の詩』 (1987年/ドイツ/128分)

テオ・アンゲロプロス監督(3作品)
『旅芸人の記録』 (1974-1975年/ギリシャ/232分)
『霧の中の風景』 (1988年/ギリシャ/125分)
『エレニの旅』 (2004年/ギリシャ/170分)

ジャン=リュック・ゴダール監督(2作品)
『はなればなれに』 (1964年/フランス/96分)
『ウイークエンド』 (1964年/フランス/104分)

ジャン・ルノワール監督(1作品)
『ゲームの規則』 (1939年/フランス/106分)

ジャック・リベット監督(1作品)
『恋ごころ』 (2001年/フランス/155分)

アンドレイ・タルコフスキー監督(1作品)
『サクリファイス』 (1986年/スウェーデン/149分)

ホウ・シャオシエン監督(1作品)
『悲情城市』 (1989年/台湾/159分)

ジェーン・カピオン監督(1作品)
『ピアノ・レッスン』 (1993年/オーストラリア/121分)

マイク・リー監督(1作品)
『秘密と嘘』 (1996年/イギリス/142分)

エミール・クストリッツァ監督(1作品)
『黒猫・白猫』 (1998年/ユーゴスラヴィア/130分)


何故かえらくベンダースに偏っていますが,アンゲロプロスも3本ありますし,ゴダールも一応入っていますから,なかなか貴重な機会だと思います。


さあ,今年もいよいよラストスパート! 今からスケジュール調整が大変になりそうです。(^^;


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2006/12/02

『大菩薩峠』 ~意外に正統派と思いきや~

1966年 日本/宝塚映画
監督:岡本喜八
原作:中里介山
脚本:橋本忍
撮影:村井博
出演:
仲代達矢(机竜之助)
三船敏郎(島田虎之助)
加山雄三(宇津木兵馬)
佐藤慶(芹沢鴨)
中丸忠雄(近藤勇)
宮部昭夫(土方歳三)
新珠三千代(お浜)
西村晃(裏宿の七兵衛)
内藤洋子(お松)


中里介山の一大長編小説『大菩薩峠』は戦前から5度映画化されており,初映画化は1935年の稲垣浩監督,大河内傳次郎主演の日活版。二部構成の大作ですが,今観ることのできるのは第一篇のみです。

私はこれをフィルムセンターで観ましたが,何せ前半だけですから映画としては実に中途半端で不完全燃焼な感じでした。


戦後に東映や大映で製作された三部作はしっかり観ていないので,今回の岡本喜八版は,私が唯一まともな形で観ることができた『大菩薩峠』ということになります。


岡本喜八の時代劇というと,コミカルな味わいでどこかイロモノ扱いのイメージが強いのですが,この作品は,意外にもラストシークエンスまでは時代劇の正統派に則った作り方をしていますね。


原作を読んでいるわけではないので,エラソウには語れませんが,主演の仲代達矢が虚無の剣士・机竜之介のイメージにぴったりフィットしていて良いのです。

仲代は本来は時代劇俳優ではありませんが,黒澤明の『用心棒』や『椿三十郎』の敵役で好演し,その後『切腹』で時代劇の主演スターとしても大看板を張れることを証明します。

本職の時代劇スターにはない,この人特有の陰影の濃い表現力があって貴重な役者さんですね。


机竜之介といえば善と悪が交錯する複雑な人格,罪のない者を平気で刃にかける特異なヒーロー像。

仲代の机は,人を切ったあとの恍惚とした表情といい,追い詰められたときの狂気の眼差しといい,どこか爬虫類的とも思える気色の悪さが出色で,鬼気迫る感じがよく出ていました。


また,三船敏郎の使い方がじつに秀逸で,堂々たる風格をもって質実剛健を絵に描いたような武士の典型像,その殺陣の豪快さといい,対する仲代の屈折ぶりとの対照が際立って印象的です。


一方で,本作は殺陣に相当なこだわりがあるようで,魂がこもっているとでもいいましょうか,侍二人が切っ先を合わせる際の間の迫真力などなかなかのもの。

東宝系だし,ひょっとして久世竜氏が殺陣をつけていますかね?


仲代の「音無しの構え」はやや棒立ち気味で腰が入っていない感もありますが,立ち回りシーンでは,引きの構図を基本にワンショットで相当な手数をこなして見せ,殺陣本来の醍醐味をしっかり押さえています。

特に序盤,机が神社の参道を降りながら,待ち伏せする大勢の刺客を流れるように切っていくシーンの素晴らしさ。やや俯瞰の位置からキャメラを直線的に移動させながらの変則撮影も利いていました。


そして,本作は終盤まで正統派時代劇の手法で進みながら,クライマックスでいきなり狂気の世界へと迷い込みます。

燃え盛る女郎屋での凄絶な大立ち回り,その悪夢のようなイメージの連鎖。

そして,あまりにも唐突に,それまでのストーリーの流れをバッサリと切り捨ててしまうアヴァンギャルドで鮮烈なエンディング。


岡本喜八としては異色のシリアス時代劇。なかなか見ごたえのある佳作といって良いでしょう。


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2006/11/25

タルコフスキーのフェティシズム

さて,「ロシア・ソビエト映画祭」以来,しつこく旧ソ連邦の映画レヴューを上げてきましたが,最後に勇気をふりしぼって(?)アンドレイ・タルコフスキーのことを少し書いておきたいと思います。

この人,私にとってはとっても厄介な映画作家で,これまであまりレビューを書いたことすらないのです。


恥ずかしながら,私はタルコフスキーの映画を観て,途中で眠らなかったことがほとんどありません。(^^;

『アンドレイ・ルブリョフ』然り,『ノスタルジア』然り,『僕の村は戦場だった』然り,そして今回の特集上映で観た『鏡』と『ストーカー』も然り・・。

ともかくいつも途中で意識を失うので,映画館で観てもあとでビデオ等で確認しなおさなければならないし,ビデオ鑑賞の際は途中で何度かテープを止めて仮眠を取りながら観ているありさま。

『サクリファイス』は断片的にしか観ていないのでともかく,寝ずに一回でクリアできたのは『惑星ソラリス』ぐらいでしょうかねぇ。


ずっと以前に,たしか池袋の新文芸坐で『ノスタルジア』と『惑星ソラリス』の2本立てを観たのですが,このときは祝い事の帰りで不遜にもアルコールが多少入っており・・,もう『ノスタルジア』の序盤から爆睡!(^^;

おかげで2本目の『ソラリス』のほうは,最初から最後までバッチリ目を開けて観ていられたのでした。

で,そのまま劇場に居座って,しつこく『ノスタルジア』も観なおして帰りましたが,「いったい何時間,映画館にいたんだ」という体たらくで,ホントに疲労困憊・・。それ以来,何だかトラウマにハマっているような状態なのです。


それにしても,何ゆえに斯くもタルコフスキーは眠いのか? 


断っておきますと,私はタルコフスキーがつまらないと言っているのではないんですよ。

ビデオやBS・CSなどの放映でふと彼の映像の断片に接するとき,その紡ぎだすショットの実に魅力的なこと。

長編的な語りよりも唐突で独立的なシーンに拘りがあることは明らかで,ひょっとして短編にすればもっとよかったのに・・。

な~んて戯れ言いってもしかたありませんよね。


いつも感じるのは,彼の作品で頻繁に用いられる極端にゆ~ったりとした長回しのトラッキングショット。概してトラックアップが多いようですが,観ていて気づかないような速度でズズーっとキャメラを移動させるあの奇妙な映像リズム。

あのリズムが,どうやら私の睡眠のリズムにピッタリ合致してしまうようで,これはきっと私だけの個人的な事情なのでしょう。


さて,タルコフスキーといえば,何といっても「水」の表現ですね。

あの奇妙な水の映像はいったい何を象徴しているのでしょうか?
水滴の滴り落ちる音像の立体感とか,もう凝りに凝っていて,何をしきりに拘っているのだかいつも不思議なんですが・・。

それと対照を成すように,ボーボーと燃えさかる炎も大好きなようで,『ソラリス』のロケット発射とか,『鏡』の燃える小屋とか・・,『ノスタルジア』にいたっては,ついに人間にまで火を放ってしまう暴挙!?


批判を覚悟で書いてしまいますが,多くの批評家が語ろうとして語りつくせない彼のこの種の映像感覚は,ひょっとして,ある種のフェティシズムに近いものなのではないかと思うことがあります。

それは,じつはタルコフスキー本人にしか(或いはごく少数の限られた人にしか)つかみ切れないフェティッシュな陶酔感なのではないだろうか?

語ろうとする言葉自体が端から無力であるような何か・・。いまだつかみ切れないそのイメージの肌触りの謎。

う~む・・,書いていて自分でもワケがわかりませんが,まったく厄介極まりないとはこのこと。


タルコフスキーは旧ソ連において当局から相当ニラまれていたそうですが,彼の作品を観るとき,そのアンチ・エンターテインメントな世界観は,非商業主義の社会でしか成し得なかったろうと思えるところが多くて,ちょっと皮肉な感じがします。

ただ,後年,亡命してイタリアで撮った『ノスタルジア』は,けっこう艶っぽい女優を配役したり,ラストに妙な合成シーンを使ったり,やや開放感があって,晦渋とされる彼の作品のうちでは,まだ観やすいかもしれませんね。


何だかまとまりのない記事になりましたが,私自身の混乱ぶりがよく見て取れて,我ながら面白いので,そのまんまアップいたしました。(^^


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2006/11/19

『鶴は翔んでゆく』 ~留めようのない現代感覚~

1957年 ソビエト連邦
監督:ミハイル・カラトーゾフ
脚本:ウィクトル・ローゾフ
撮影:セルゲイ・ウルセフスキー
出演:
タチアナ・サモイロワ
アレクセイ・バターロフ
ワシリー・メルクーリエフ


先日,京都シネマで観たソビエト「雪解け」期の隠れた名編で,カンヌでパルムドールを獲ったのだそうですが,今回の「ロシア・ソビエト映画祭」までは,個人的にまったく知らない作品でした。

映画のタイトルが何だか珍妙な感じ(原題の直訳?)ですね。でも,公開時の邦題は『戦争と貞操』だったそうで,それよりは幾分かマトモなタイトルではないかと思います。


物語は,恋人を戦争に取られた女が,彼女に横恋慕していた別の男に貞操を奪われ,しかたなくその男と結婚しながら,もとの恋人への想いを断ち切れず待ち続けるというもの。

ストーリー自体は,まあ今の感覚からすると有り触れたものかも知れませんが,その映像の斬新さにはかなり驚かされました。


ときに極端な仰角アングルを用い,逆に大胆な俯瞰ショットも挿入しながら,キャメラワークの基本はローポジションに置いているようです。

おそらく意図的に,ローポジションから天井の梁や階段の手すりのラインを画面に斜めに収めるショットを多用し,遠近法を利した奥行きの深い画づくりを見せます。

その深い空間構造の手前と奥を使って,実に立体的な場面演出をしており,映像に不思議な魅力があるんですね。


また,移動・長回しのショットがけっこう多くて,それがどこか溝口作品に通じるような映像のダイナミズムを生んでいる印象があります。

特に出征する兵士たちを見送る人の波を主人公の女がかき分け,戦場に旅立つ恋人を懸命に探すシーン。

キャメラを大胆かつ流麗に移動し,別れを惜しむ大勢の人々の表情や動作を,次々と展開的にクローズアップでとらえて見せ,そのモーションピクチャーならではともいえる目くるめくような感覚が主人公の心情とシンクロするようで,実に映画的な感興の高いシーンでした。


一方,作中に何か所か,目まぐるしいモンタージュによって登場人物の激情をシンボリックに描き出すシーンがあります。

なかでも,男への思慕を断ち切れない女が,自分の裏切りを恥じて走り出すシーン。

木立ちをかすめる日光の不安なキラメキ,ごう音を上げて疾走する列車,鉄橋から空中を落下する妄想的な主観ショットなどを次々とつないで,ギラギラと狂気をはらんで見せる感覚描写のスゴみ。

表現手法自体に,ややアヴァンギャルドに走りがちなアザトさを感じさせながら,その緊迫感に満ちた映像に思わず目を引きつけられてしまいました。


ただ,人物の感情表現にあたっては,やや古典的とも思える俳優の表情の綺麗なクローズアップも多用していて,そういう点では過渡的な作品とも言えるかもしれません。


ともあれ,こんな映画が1950年代に共産ソビエトで撮られていたということは私にとって予想外であり,ただ驚きを感じながらも,やはりこの時期,ヌーヴェル・ヴァーグ的な革新の波は,世界的に留めようのないものであったのだと痛感させられる思いがしたのでした。


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2006/11/15

『愛していたが結婚しなかったアーシャ』 -肉体を持った映画-

1967年 ソビエト連邦
監督:アンドレイ・ミハルコフ=コンチャロフスキー
脚本:ユーリー・クレピコフ
撮影:ゲオルギー・レルベルグ
出演:
イヤ・サーヴィナ
アレクサンドル・スーリン
ゲンナジー・エゴルィチェフ


コンチャロフスキーという人は,『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』などで知られるニキータ・ミハルコフの兄で,アンドレイ・タルコフスキーとは映画大学の同窓。

タルコフスキーに協力して『アンドレイ・ルブリョフ』の脚本を共同執筆したことでも知られています。

あのキッカイな映画の脚本に関わった作家というので,どんな映画を撮っていたのか興味があったのですが,ソビエト時代の作品を観るのは今回が初めてでした。


じつは本作の前に,同じコンチャロフスキーの『貴族の巣』(1969年)という作品を観て,これがもう,とんでもなくユル~い映画で,何度も意識を失いながらやっと観たという感じだったので,この作品は観ようか止めようか迷ったのですが,ホントに観てよかったと思いました。


これは,製作後20年間も公開が禁じられていたという曰く付きの作品なのだそうで,確かにやや不道徳な話ではあるし,戦争批判の匂いも漂っていて,やはりこれでは,60年代のソビエトでの公開が認められなかった理由もわかる気がします。


出演者のうち,職業俳優は3人だけで,ほかは実際の農民や労働者がそのまま出演しているようで,ちょっとイタリアのネオリアリズモと似た空気感がありますね。

しかし,そこはさすがにソビエトのコルホーズ(集団農場)のお話,豊かではないけれど,貧苦にあえいでいるような様子はやはりありません。


主人公は,脚が不自由だが明るく女っぽい女性アーシャ。ある流れ者の男が彼女に想いを寄せていますが,アーシャが愛したのは冷淡で身勝手な別の男。彼女はその男の子を身ごもってしまいます。

アーシャは,男に踏んだり蹴ったりされながら,常に笑顔を絶やさない鷹揚でタフな女性。しかし,本当は心の奥で悲しみをジッと耐えており,ある瞬間にそれが噴き出すこともあり・・。


ヘンな話ですが,この映画には人間(特に女性)の肉体の温もりがありますね。

生身の人の肉感があり,その存在感や肌触りが,不快なベタつきなく瑞々しいタッチで画面から迫ってくるような感覚があります。

こういう赤裸々系のリアリズム作品では,得てしてウンザリするような生理的嫌悪感がついて回りやすいのですが,この作品には不思議にそんな感じがまったくないのです。


一方で,広大な農場のロングショットに野鳥のさえずりや鶏の鳴き声をかぶせ,農夫たちが奏でるアコーディオンやラッパ,人々の歌声以外には,余計なBGMを入れることなく,シンプルで長閑な空気感が心地よいですね。

作中,戦争で傷ついたホンモノの退役傷痍兵が延々と身の上話をするシーンが挿入されるのですが,そういうシーンはホントに即興で好きなように撮っている印象があり,言い知れぬエネルギー感があります。

ともあれ,この作品には,コンチャロフスキーが本質的に持っている何かがあるように思えるのです。


それにしても,これを撮ってわずか2年で,何であの『貴族の巣』になってしまうのか? 疑問を感じるところではありますが,やはり,この作品がお蔵入りして日の目を見なかったトラウマが大きかったのかもしれないですね。


で,この後,コンチャロフスキーは80年代にはハリウッドにへ去ってしまうことになるわけです。


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2006/11/10

『母』 -映像の激流-

1926年 ソビエト連邦
監督:フセヴォロド・プドフキン
原作:マキシム・ゴーリキー
脚本:ナターン・ザルヒ
撮影:アナトーリー・ゴルヴニャ
出演:
ヴェーラ・バラノフスカヤ
ニコライ・バターロフ


「ロシア・ソビエト映画祭」からの6本目は,知る人ぞ知るプドフキンの秀作です。


ずいぶん昔から一度は観てみたいと思っていたソビエト・サイレント期の名編ですが,今回上映されたのは,1968年になってオリジナルに音響を付けたいわゆるサウンド版。

音楽だけでなく,ドアをノックする音やら何やらご丁寧に効果音が挿入されており,ちょっと,こういうのはどうしたもんでしょうか?

映像リズム自体がサイレント映画特有の「音がなくても音が聞こえる」といった類のもので,音楽はともかく効果音はやはり余計だったのではないかと個人的には思いました。


さて,ロシア十月革命の10周年を記念して製作されたという本作は,じつにあからさまな共産プロパガンダ映画であり,煽動主義の意図に満ちた怪作とでもいうべきものです。

しかし,そういったプロレタリア主義的な煽動自体が意味を為さなくなってしまった今,作品本来の目的とは何の関係もなく,純粋にその映像表現に没入できるというのは,何とも皮肉な感じがします。


この時期のソビエト映画らしく,目まぐるしいほどのモンタージュが見られますが,全体には映画のストーリーラインと親和性の高い意味的なつなぎを基本としているようで,この辺はエイゼンシュテインのサイレント作とは違った印象があります。

例えば,風にそよぐ樹や鉄橋,河を覆う流氷など,唐突に挿入される短いショットについて,最初は今ひとつ意味が明確でないのですが,それが何度も繰り返し挿入されるうちに,映画のストーリーが追いついてきて意味がつながります。 

そういった点では,比較的解かりやすい作品といってもよいでしょう。


基本的に職業俳優を使っているらしく,この辺も素人を起用していた同時期のエイゼンシュテインとは,スタンスがかなり異なっているようですね。


全体に,サイレントらしい非常にスピーディな映像リズムで展開し,特にクライマックスのデモ行進のシーンから最期のワンショットまでは,まさに「映像の洪水」状態。

労働者のデモと思想犯の脱獄を交互に見せるシーンの緊迫感,息子を奪われた「母」が赤旗を掲げて凛と面を上げ,騎兵隊に向かっていくシーンの高揚感。

映像の密度がきわめて高く,スクリーンに吸い込まれてしまいそうなほど。観終わってしばらくは,ファンファーレが脳髄にコダマし,しばし陶然となっていました。

こういったことは,プロパガンダ映画ならではといえるのかも知れませんが,ここまで強烈な作品はそうはないでしょう。


ところで,今回のプリントは何故かインタータイトル(中間字幕)が日本語オンリーで,事実関係は不明ですが,音響版にした際に日本上映用に特別製作されたものかもしれませんね。


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2006/11/06

『イワン雷帝』 -ハイテンションなロシア大歌舞伎-

第一部:1944年/第二部:1945年 ソビエト連邦
監督・脚本:セルゲイ・エイゼンシュテイン
撮影:エドゥアルド・ティッセ,アンドレイ・モスクウィン
出演:
ニコライ・チェルカーソフ
セラフィーヌ・ビルマン
リュドミラ・ソエリコフスカヤ


さて,ロシア・ソビエト映画祭からの第5弾は,映画史上に名高いセルゲイ・エイゼンシュテイン「未完の大作」です。


この作品は以前にBSで放映されたときに録画したビデオがあるため,特に第一部・冒頭の戴冠式のシークエンスが好きで,ここばかり何度も繰り返し観ていたのですが,全編を通して観るのはじつに久しぶりでした。

今さら私ごときが何をかいわんやという偉大なる作品ではありますが,改めて感じたところをいくつか記しておきたいと思います。


観終わってまず感じたことは,一部・二部を通しての異様なテンションの高さ。

全編に渡って息を飲むようなサスペンシブな感覚に満ち,ずっと拳を握りしめていなければならないような,何かそんな印象なのです。


静謐なタッチで進行していく映画はいくらでもありますが,こんな風にハイテンションのまま劇的に進行していく映画というのは,そう滅多にあるものではないでしょう。

で,このテンションの正体は何なのか? ちょっと私なりに考えてみました。


■一つ 徹底して計算され尽くした映像がもたらす緊迫感


まず目立つのは,人物の表情を極端なクローズアップでとらえ,それを短いショットでつないで見せるモンタージュのリズム。

強烈なライティングによって生み出される陰影の濃さ。ただ押し黙ってニラミを利かせる人物の顔に,下からあおるようにライトを当て,内面に渦巻く憎悪や疑念,葛藤などをシンボリックに浮かび上がらせて見せるその迫力。


二人,三人の人物をフレームに収めるショットが多いのですが,多くの場合,手前と背後に重ねるように人物を配置し,常にどの人の顔もキャメラを向くよう,慎重に角度を調整しています。

そして,背後の人物が何か語りかける(ソソノカす場面が多い)のに対して,手前の人物の表情が刻々と変化していくわけです。

全体に顔の演出にこだわっていて,クローズアップが多く,セリフはなくとも表情で雄弁に物語る。これはある意味,サイレント的な表現でもあります。


そして,同じく強烈な照明によって壁に大きく投影される人物の影,その不安感をあおるような不気味な揺らめき。

特に緊迫した場面で,あえて人物をフレームからはずし,黒々とした「影」だけで表現するシーンもあり鬼気迫るスゴミを感じます。


この映画は,ショットの一つひとつがサイレント映画のスチール写真を観るような感じで,印象的に網膜に焼きつきますね。

どちらかというと,ストーリーテリングよりも映像感覚に重きを置き,常に画のテンションを保っている感じがするのです。


■一つ 極度に形式化・様式化された演出がもたらす高揚感


演出面では,全体として舞台劇的な身振りや動作,セリフ回しを前面に出して,あえてリアリスティックな表現は捨て,シンボリックな表現手法に拘っているようです。

ときに人物の性格付けに応じて,付け鼻のような,やや大仰とも思える特殊メイクを施したりもしています。


この作品を撮ったころ,エイゼンシュテインは日本の歌舞伎に影響を受けていたらしく,特に皇帝イワン役のチェルカーソフの大見得を切るような演技には,その影響を見て取ることができます。

妙に力のこもった大時代な演出ですが,様式化された動作や表情によって,人間の内面を見える型にして描出し,ある種,エキセントリックな映像世界が紡ぎだされています。


■一つ 映像と音響的効果のコンビネーション


冒頭の戴冠式から,いきなりリズミカルな鐘の音が鳴り響き,ロシア正教の荘厳なアカペラ音楽や,能の謡のような即位の祝詞(のりと)など,あふれる音によって彩られています。

全編に渡ってふんだんにBGMや効果音を挿入し,ときにセリフのない静かなモーションだけのシーンには音楽をかぶせ,それによって映像に意味を付与し,ある一定のテンションを保っています。

登場人物のセリフ自体も力感がこもって劇的な響きを持つことが多く,要所でファンファーレのごとく高らかに鳴り響く主題曲も効果的に使われています。


一貫してテンションが高いとはいっても,それは一本調子ではなく,常に緊迫したなかにもしっかりメリハリがあります。一部・二部で3時間の大作ながら,そんなに長い感じがしないのはそのせいかもしれません。


■番外 第二部の意外な構成


観られた方はお解りの通り,第二部は第一部とは構成上ずいぶん違いがあります。

まず意外に感じるのは,唐突にミュージカルの要素が組み込まれることでしょう。最初,ちょっと驚きますが,それでも違和感がないのは,第一部からエキセントリックな劇的演出で一貫しているからなのではないでしょうか。


そしてこの第二部を特徴づけるのは,何といってもパートカラー(モノクロを基本に部分的にカラーを挿入している)でしょう。

なるほど,このシーンでこの演出ならカラーにするのが必然と納得できる,歌と踊りに彩られた美しくも妖しい饗宴シーンです。


このカラーの色調は非常にコントラストが高く,極端に陰影が強いのが特徴的で,特に黒を基調として,ライティングによって燃え盛る炎のような赤を加えており,文字通り不思議な色彩感覚ですね。

色調はまったくナチュラルではないのですが,じつに映画的な感興があって,これもこの映画のテンションを保つことに一役買っているように思います。


余談ですが,今回観たプリント(フィルムセンター提供版)は,カラー場面で途中から急に色調が転換してしまって,これは,おそらく複数のプリントから状態の良い部分をつなぎ合わせた結果ではないかと思われます。

当時アメリカ映画などでよく使われた三原色テクニカラー方式(赤・緑・青の三本のモノクロフィルムによるカラー)ではなく,カラーフィルムを用いて撮られているわけですが,この時代のフィルムとしては,褪色がさほどでもないので,よほど保存状態が良かったのでしょう。


以上,まことに勝手ながら,感じたことを思いつくまま述べてみました。


第3部を完成することなくエイゼンシュテインが亡くなったことが惜しまれますが,たとえ未完とはいえ,観る価値の高い作品であり,これが劇場上映できる形で残されていることは,じつに幸運なことといってよいと思います。


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2006/11/04

「ロシア・ソビエト映画祭」 盛況のうちに終幕

シネ・ヌーヴォで開催中の「ロシア・ソビエト映画祭」は昨日で終幕いたしました。


フィルムセンターみたいに1か月単位で悠々とプログラムを組むのと違って,わずか2週間であわただしく駆け抜けるような感じでしたね。

それでも日に5~6本かけてくれるし,チケット購入も,その日の分を割引でまとめ買いできたり融通が利くので,久々に1日3本ドップリ鑑賞も堪能できました。


客の入りは,この種の特集上映では,大阪に来てから体験したなかでも異例なぐらいの盛況。座席数を越えてお客さんが入ることもけっこうありました。

で,今回は頑張って平日の夜まで駆けつけ,何とか以下の12本を鑑賞しました。


『モスクワは涙を信じない』(1980年/ウラジミール・メニショフ)
『トルブナヤ通りの家』(1928年/ボリス・バルネット)
『ピロスマニ』(1969年/ゲオルギー・シェンゲラーヤ)
『誓いの休暇』(1959年/グリゴーリー・チュフライ)
『レーニンの三つの歌』(1934年/ジガ・ヴェルトフ)
『イワン雷帝 第1部』(1944年/セルゲイ・エイゼンシュテイン)
『イワン雷帝 第2部』(1945年/セルゲイ・エイゼンシュテイン)
『母』(1926年/フセヴォロド・プドフキン)
『貴族の巣』(1969年/アンドレイ・コンチャロフスキー)
『愛していたが結婚しなかったアーシャ』(1967年/アンドレイ・コンチャロフスキー)
『鏡』(1975年/アンドレイ・タルコフスキー)
『ストーカー』(1979年/アンドレイ・タルコフスキー)


少し残念だったのは,上映設備がサイレントフレームに対応できていなかったこと。

サイレント版の『トルブナヤ通りの家』は,トーキー・スタンダードでの上映だったようで,スクリーンのタテのサイズが短いため,映像が上の黒幕部分にはみ出して,場面によっては人の首から上が切れてしまったり・・。

当然,サイレント映写機ではないので,オリジナルの上映速度からするとやや早送り状態となり,上映時間もかなり短かったようです。

まあ,この辺は最高レベルの映写設備を誇るフィルムセンターには及びませんが,しかしまあ,大阪でもこんな作品が観られたというだけで,まずは良しとせねばなりますまい。(^^


12本も観れば,なかには正直ちょっと首をひねる作品もありましたが,頑張ってできるだけレビューを書きたいと思っています。


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2006/10/31

『誓いの休暇』 ~戦場をかける青春ロードムーヴィー

1959年 ソビエト連邦
監督:グリゴーリー・チュフライ
脚本:ワレンチン・エジョフ
グリゴーリ・チュフライ
撮影:ウラジミール・ニコラーエフ,エラ・サヴェーリエワ
出演:
ウラジミール・イワショフ
ジャンナ・プロホレンコ


ソビエト映画としては,巷間でもけっこう有名な作品なのですが,今日まで観る機会がなく,ようやく今回初鑑賞となりました。


本作が撮られた1950年代終盤といえば,スターリン死後の「雪どけ」の時代でもあり,これを反戦メッセージを込めた作品と見る向きも多いようですが,そのあたりは,観る側の感じ方しだいといったところでしょうか。


本作の主人公たる少年兵は,戦功を立てた褒美として休暇をねだり,母の待つ故郷へと帰るという設定。

ササヤカながら「戦争の英雄」を主人公とした作品であり,この手の人物を真っすぐで勇気あふれる優しい人物造形で描くというのは,じつは古くから「戦意高揚」映画の基本パターンでもあったわけです。

また,将校連中は概して物わかり良く情け深い人柄に描かれ,軍部批判と見なされそうな表現は慎重に避けられており,やはり検閲通過のために苦労をしているのだな,ということが伝わってくる感じがしました。


その一方で,戦場に散った我が子を想う母の姿を冒頭とラストに置いて物語の前後をはさみ,その痛ましい様が厭戦的な空気を醸しだすことになって,この部分を反戦メッセージと捉える見かたもまた否定はできません。


このへん微妙なところですが,まあ,シドモド言わず,戦争という非常時に材をとった,みずみずしい感覚の青春ロードムーヴィーと捉えるのがいちばん妥当かもしれませんね。


その冒頭,見晴るかす広大な地平へと続く道に母はたたずみ,今日も息子を待ちわびる。この道を旅立っていった我が子はついに故郷へ帰ることはなかった・・。


物語は過去にさかのぼって,通信兵だった少年が思わぬ戦功を立てるところから始まります。

6日間の休暇をもらって戦場から母のもとへと急ぐ少年兵は,その純真一途な性格から,途中で出会った人たちにとことん付きあい,見知らぬ兵士との約束を果たしたりしているうちに帰省が遅れ,故郷へ帰りついたときには休暇はほとんどなくなっていて・・。


とくに軍用列車に潜んでいるときに出会った少女との淡いロマンスが1本の芯になっており,今の感覚ではいささか青臭いとも思えるこのエピソードが強烈なロマンティシズムを奏で,少年がすでにこの世の人ではないことを思うとき,そこはかとないリリシズムが漂います。

恋する男女が見つめあうアップショット,純真な眼差しの正面ショットの切り返しなど,今の映画では,ちょっとはばかられるような直接的な感情描写を何のタメライもなくやってしまうところは,やはりこの時代の青春映画の特権ともいえるのでしょう。


全編にわたって非常に「湿り気」の多い演出で,ある種のフランス映画・・,例えばジュリアン・デュヴィヴィエの作品などに通じるロマンスの甘さがあり,それにロシア大陸的な大らかさを融合したところに本作の特色があるのかもしれません。


ともあれ,非常に素直で純粋といいましょうか,この直進的な叙情性は,1960年ごろの木下恵介などが映画を引っ張っていた時代の日本では,やはり大いに受けたかもしれないですね。


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2006/10/28

『ピロスマニ』 ~絵画に捧げられた映画~

1969年 ソビエト連邦(グルジア)
監督:ゲオルギー・シェンゲラーヤ
脚本:エルロム・アフヴレジアニ,ゲオルギー・シェンゲラーヤ
撮影:コンスタンチン・アプリチャン
出演:
アフタンジル・ワラジ
アッラ・ミンチン
ニノ・セトゥリーゼ


「ロシア・ソビエト映画祭」からの第3弾は,小品ではありますが,近ごろ珍しく「掘り出しモノ」といった印象の好篇です。

これはソビエト映画といっても,ロシア系の作品ではなく,グルジアという旧連邦の中でも民族(民俗)的に特殊な国の映画で,かなりの異色作といっていいでしょう。

宗教的には正教徒の国のようですが,中東に近いだけあって,文化的にはちょっとイスラム圏の雰囲気が漂っている感じがしますね。


ピロスマニというのは,19世紀末からロシア革命ごろに生きたグルジアの放浪画家ニコ・ピロスマニのことで,映画中ではニコライ・ピロスマニシヴィリ(通称ニコラ)と呼ばれています。


不遇のうちに没した画家の半生を描いた作品であり,その主題に合わせるかのように,全編が非常に絵画的なタッチで構成されています。

特に前半はピロスマニの描いた絵を画面に散りばめながら,それぞれのショットごとにアングルの取り方,画面構成,色彩等に細心の注意を払いつつ,じつに精緻に仕上げられている印象でした。


色彩的には一貫してグリーンとブルーの微妙なバランスを基調とし,画面構成はムダな装飾を排した簡素なイメージで,映画の画調やリズムと,ピロスマニの絵が持つシュールでホノボノとした肌触りがマッチしていて良い感じなのです。


例えば,たびたび登場する場として,飲食店のカウンターとその奥の高い棚によって区切られた空間があります。

その簡素ながら画面の奥行きを感じさせる精妙な構図と,そこに配されたピロスマニの絵の装飾性,そしてそこで展開されるちょっと寸劇調の芝居の静かなリズム。

演出的にも全体に淡々と静かなタッチで,劇的な表現は慎重に避けられ,セリフも必要最小限に抑えられていて,どちらかというと,心理描写や感情表現を抑制しながら,画に集中することを求める作り手の傾向がうかがえます。


また,ピロスマニの絵を再現したシーンが随所に見られますが,なかでも,祝祭日か何かの祝宴で,広い草原のあちこちで人々が会食するロングショットが実に絵画的で,個人的に印象に残っています。


後半はピロスマニの絵が中央画壇から酷評され,人々の心が離れて独り取り残されていくのですが,その様子を,店の壁から絵を外すすことで象徴的に表現し,ただ静かに寂寥感を醸しだすなど,よくわきまえた演出ですね。

一方で,ピロスマニが故郷の親戚を訪れるシーンでは,唐突に少年に戻って駆け出すようなエキセントリック描写を入れ,心弾むひと時を表現するなど,「映画」的な表現の独自性も忘れてはいません。


主人公が哀れな末路をたどる悲劇性を,感情を煽るような演出をせず,ただ静かに,しかし奇妙にユーモラスな空気感で包みながら描き,そこには,一人の放浪画家に対する作り手の敬意が感じられて,何だか良いのです。


本作は,その色彩や画面設計から演出にいたるまで,すべてピロスマニとその絵画のために捧げられたような作品で,映画としては異色かもしれませんが,こういうあり方の映画もあって良いのだと感じさせる,真に愛すべき逸品であります。


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2006/10/26

『トルブナヤ通りの家』 ~バルネットのサイレント喜劇~

1928年 ソビエト連邦
監督:ボリス・バルネット
脚本:ベーラ・ゾリチ,アナトーリー・マリエンゴフ,ワジム・シェルシェネヴィチ,ヴィクトル・シクロフスキー,ニコライ・エルドマン
出演:
ボリス・バルネット
ヴェーラ・マレツカヤ
ウラジーミル・フォーゲリ


「ロシア・ソビエト映画祭」からの2本目は,ボリス・バルネットのサイレント喜劇です。

B・バルネットの映画は,個人的にこれまで鑑賞の機会がなく,ようやくこれが観られたのは真に幸運なことと言わねばならないのでしょう。


時代的には,ロシア革命から10年ほど経たころ,映画界ではエイゼンシュテインがモンタージュ理論にもとづく『戦艦ポチョムキン』を撮って数年,そろそろトーキーの産声も聞こえようかというサイレントの末期。

他国では,ルネ・クレールの『イタリアの麦藁帽子』なんかと同時代の作品ですね。


このB・バルネットという人は,生粋のロシア人ではなくアイルランド系で,下積みをへたのち,サイレント期終盤に映画を撮り出して,戦中・戦後には,ソ連国内でけっこう活躍したそうです。

ただ,国際的にはまったく無名で,死後ずいぶん経って80年代に発掘され,日本では,90年代に入ってようやく観られるようになった映画作家とのこと。


さて,ストーリーの芯は,田舎からモスクワへ出てきた下働きの少女が,横暴な雇い主にコキ使われながら,労働組合に入ったためにおこる騒動の顛末。

ご多分にもれず,いかにもプロレタリア主義を基調にした構成で,ストーリー自体は陳腐化してしまっていますが,映像表現には見るべきものが多々あります。

といっても,エイゼンシュテインみたいなゲージュツ映画ではなく,ソビエト庶民のための娯楽映画といった性質の作品ですから,肩の力を抜いて楽しく観られますよ。


まず,冒頭のアパートメントの階段シーンが素晴らしいですね。いかにも“舞台装置”といった趣きで,キャメラフレームに三階分くらいを一気に収めて見せる集団モーションの楽しさは秀逸。

こういうのは今のリアリズム映画ではちょっとできない表現でしょうね。


そして,さすがに「モンタージュ理論」華やかなりしころの映画といいましょうか,ショットのつなぎが目まぐるしく,ヴァラエティに富んでいて,ときに空間を超越するような編集も見られます。

短いショットのつなぎで映像のリズムを作り,それが笑いのリズムを生み,音までも感じさせるというサイレント期に特有の表現技法を満載。

路面電車のコマ撮りによるスリル満点のシーンなど,今観てもハッとするような映像の魅力に満ちています。


美男・美女などまったく登場しない地味なタッチで,ラストのオチでは,いかにもプロパガンダ映画的な教訓が透けて見えますが,まあその辺は割り切って,モーションイメージの楽しさに富んだ喜劇として観るのが適当かと思います。


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2006/10/07

『太陽を盗んだ男』 ~シラケ世代のアナーキズム~

1979年 日本/キティ・フィルム・コーポレーション
監督:長谷川和彦
原案:レナード・シュレイダー
脚本:長谷川和彦,レナード・シュレイダー
撮影:鈴木達夫
音楽:井上堯之
制作進行:黒沢清
助監督:相米慎二,榎戸耕史
出演:
沢田研二(城戸誠)
菅原文太(山下満州男警部)
池上季実子(沢井零子/ゼロ)


大変遅くなりましたが,高槻松竹セントラル・サスペンス傑作選からもう1本,記事をあげておきます。


この作品はずいぶん昔にテレビ放映で観たことがあったのですが,断片的にしか記憶がなくて・・。でも,観なおしてみると,意外に面白い作品ですね。


長谷川和彦という70年代作家を,私はよく知らないのですが,監督作はこれのほかに1本あるだけで,本作のあと今日までは映画を撮っていないようです。

ひょっとして,これを撮ったために干されたのではないかと疑ってみたくなるほど,アブナいというか,不謹慎というのか・・・。でも,中盤までは,割りとよくできていて驚きました。

序盤,伊藤雄之助演ずるバスジャック犯の「天皇陛下に会わせろ!」からして,いきなりキナ臭いのですが,沢田研二の中学教師が,原発からプルトニウムを盗み出して原爆を製造しだすにいたっては,ある世代以上ならマジで怒る人もいるでしょうね。


それにしても,沢田が一人アパートにこもって原爆製造に没頭する,その過程が克明に,何か趣味の陶芸でもやるかのように生活観を伴って描かれていて,この辺の表現には相当に思い入れを感じさせます。


70年代終わり頃の若い教員といえば,かつて全共闘世代からシラケ世代への過渡期にあって,私よりひと回りかそこら上でしょうか。

フーセンガムをクチャクチャ噛みながら,学校では生徒にバカにされて,適当にデモシカ教師で流している。

カタヒジ張って生きるのはカッコ悪いというシラケ感覚を醸し出しながら,しかし,原爆製造にはワキ目も振らず熱中。

ところが,いざ原爆を完成してみると,国家を相手に脅迫しながら,何を要求すればいいのか分からない。じつは何も要求することがない・・。


闘争も高度成長も過ぎ去り,人と社会との関わりも冷めきって,夢を失いつつあったその時代,ある世代の無力感や焦燥感,刹那的な生きざまをシンボリックに綴り,70年代末の時代感覚をデフォルメしながら,鋭く描き出しています。


見どころは,東京・渋谷のメーデーの雑踏を舞台に,沢田と政府・警察が繰り広げる消耗戦。メーデーのデモ行進という「形式だけの闘争」のさ中にドラマを展開するというのは,ある種の風刺でしょうか。

このシーンは,メーデーのその日に一発撮影を敢行したようで,ゲリラ的なロケーション撮影の感覚が活きていました。

そして結局,ここで原爆は警察の手に渡り・・。


このあたりまでは,じつに映画的といいましょうか,映画に浸る感覚があって良い感じだし,そのままエンディングという手もあったと思いますが,本作はここからもう一発,新たな展開に突入します。


原爆を失ったあと,心に穴が開いてフヌケみたいになった沢田は,池上季実子のラジオ・パーソナリティーと組んで,原爆を取り戻しに行くのです。

ここからは,それまでと打って変わって,完全に「ルパンⅢ世」見過ぎ(^^)状態に・・。

それもまた楽しくて良いんですが,作品としてのタッチの一貫性という点で,ちょっと首をひねるところだし,正直,長く引き伸ばしすぎてキレを逸した感はありました。


沢田研二は,ナイーヴだがアナーキーな主人公を,心情描写を抑え気味にしながら,なかなかの好演。

犯人を追う刑事役の菅原文太は,もうまったくいつも通り。この人,何をやっても結局,同じにしてしまうところが,ある意味スゴイ。(^^

紅一点の池上季実子は,演技もセリフもいかにも70年代青春ドラマ臭フンプンたる感じで,ワザとこういうクサい芝居を演出してアクセントにしたのかもしれません。


ともあれ,ストーリーからして年配の方にはまずオススメできませんが,70年代に青春を送った世代なら往時を懐かしみながら,若い世代なら単純に荒唐無稽な娯楽作品として楽しんで観ることができるのではないでしょうか。


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2006/10/03

それぞれの『飢餓海峡』 ~水上勉と内田吐夢~

昨晩,ココログのメンテナンスに引っかかって上げられなかった記事を一つ・・。

前回の『飢餓海峡』の記事にいくらか補足する形で,諸々ウラ事情(?)を記しておきたいと思います。


じつは水上勉の原作本については,数年前に上巻を読んだだけでモッタイなくも打ち捨ててあったのですが,今回,映画を鑑賞するにあたって,書棚の奥から掘り起こして最後まで通読していたのでした。

文庫本にして上下2巻にわたるこの長大な小説は,ミステリーというより,社会小説的な趣きの強い重厚でパワフルな作品です。


私が映画を観たのは,原作を読み終えて程無くであり,また,その時点で諸々の情報を仕入れていたために,「映画」を「映画」として・・,純粋に独立した一個の作品として観るというスタンスとは,いささか外れたものであったのかもしれません。

以下,多少とも"ネタバレ"が混入しています。ご注意ください。


■水上勉の『飢餓海峡』

水上勉の原作が,構成上,映画と最も異なる点は,杉戸八重が殺害されたあとの警察捜査の描き方で,映画ではかなり大幅に割愛されているこの部分が小説では下巻の大半を占め,樽見京一郎という怪物のような男の正体を,歩一歩と解き明かしていく過程が克明に描かれています。

そこのところが,小説としての最大の魅力といっても良いでしょう。


なかでも強烈に印象に残ったのは,刑事たちが樽見の出自・生い立ちを追って,彼の故郷である丹波の奥深い僻村へ分け入り,そこで発掘したこの男の赤裸々なルーツ。

文庫本にして30数ページに及ぶ克明な捜査から浮き彫りにされたのは,樽見京一郎とその両親が負った過酷な試練。それは想像を絶するような話で埋め尽くされ,衝撃的というほかありません。

近代以降の日本において,これほど人を人とも思わない冷酷な仕打ちがあり得たものか・・。

知られるとおり水上勉という人は,若狭の「乞食谷」とも呼ばれた僻村の出身で,その時代のそういう山村の実態に通じていたらしく,もちろん創作半分とはいえ,実際に見聞した事実が大元にあるのは確かではないかと思われます。


例えば,下北の杉戸八重の生家や北海道の開拓村などについても,厳しい困窮のようすが描かれていますが,それらが貧しい村の肩寄せ合うような話なのに対し,樽見の故郷の話だけは,明瞭に「貧富の差」の問題として・・,もっと言ってしまえば「差別」の問題として描きこまれているのです。

それはまさに主人公の「飢餓」の原点とも言え,この男が,社会の最底辺に生きる人たちに慈愛の心を持ちながら,反面,犯罪に手を染めることも厭わない行動原理を示し,慈悲深い篤志家と冷酷な犯罪者が同居している,その矛盾を解き明かすキーともなるでしょう。


そして,原作を読み終わったあと,いろいろ調べてわかったのですが,この主人公の出自については,前の記事で触れた「ある問題」を底流に持つという説が唱えられていること。

もちろん作者自身がそう語っているわけではなく,推測の域を出ないのですが,こういうことは読む人が読めばわかることなのだそうです。

じつは,私自身,大学時代の一時期に,その「ある問題」の現場で活動を続ける人たちと交わる機会があり,その問題を身近に垣間見てきた経緯があります。

そういうこともあって,私は,この作品が含み持つテーマの重みをヒシヒシと感じながら,内田吐夢の映画に臨んだのでした。


■内田吐夢の『飢餓海峡』

『飢餓海峡』を,あの内田吐夢が映画化したという話は,私にとっては大きな期待を抱かせるものでした。

何せ,あの『土』(1939年)を撮った映画作家ですから。

『土』はホントに素晴らしい映画です。明治の封建農村における小作農民の生き様,その過酷さをまざまざと見せつける透徹したリアリズム。そこに描き出される農民の顔はホンモノ以上にホンモノらしいとさえ感じられました。

ロシアで発見された最良のプリントでさえ,最終10巻目が欠落しており,もはや商業映画としての体を成さないこの作品の記憶が,私に内田吐夢なら樽見京一郎という男の「飢餓」をツブサに映像化しえたのではないかという期待を抱かせたのです。


映画『飢餓海峡』は,冒頭から序盤では,凶悪犯罪に関係した犬飼多吉(三国連太郎)と杉戸八重のひと時の交わりを描き,中盤は杉戸八重(左幸子)の10年にスポットを当てます。


小説にはなくて映画が創作したものの一つに「爪」があります。この小道具によって左幸子の入神の演技が引き出され,そして結局,これが犯人の頑強な心を折る道具としても使われます。この「爪」を創作した点は映画の勝利といってよいでしょう。

小説は「爪」ではなく,ちょっと質の違う小道具を用いて似た場面を演出していますが,ただ,小説もおそらくは映画も,最後は杉戸八重の純真な想いが,樽見の心を打ちのめすという情意の演出を意図したものでした。


映画の後半では,原作が多くの紙数を割いた警察捜査や北辺の開拓村のエピソードなど煩瑣なものを思い切って割愛し,三国連太郎演ずる主人公と刑事たちの執念の対決に焦点を合わせています。


「映画」として余計な部分を端折ったことで,本作が成功したことに疑いはありませんが,ただ一点,違和感を覚えたのは,小説では「飢餓」の原点とも思われた犯人の生い立ちの表現を,わずかワンショットの刑事の報告に集約してしまったこと。

もともと不要なものとして脚本に入れなかったのか? ひょっとして撮っていたのに編集の際にカットしたのか? 脚本・演出側の判断か? それとも・・・。


非常にうがった見方ではありますが,これはひょっとして,先に述べた「ある問題」に配慮した結果だったのかもしれないと,観終わってふと思ったのでした。

文章ならともかく,映像化してしまうとなると影響力は絶大で,映画の公開に何がしかの支障が出るかもしれない。

ただ,その辺の事情は,当事者でもない限り憶測の域を出ませんね。


さてさて,最後になりましたが,私は基本的には,映画は映画として,原作やら何やらに束縛されることなく,純粋に一個の作品として観るのがイチバンだと思っています。

観る前にいらない先入観を入れてしまうのは不幸なことであるとも思います。

ただ,映画一本観るにも,その時々でいろいろ事情が重なり,無用なヘリクツをコネたくなることもやっぱりあるのです。まあ,それもまた楽しからずやというところでしょう。(^^


長くなり過ぎましたので,本日はこれにて・・。


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2006/09/28

『飢餓海峡』 ~狭間にできてしまった奇跡~

1964年 日本/東映
監督:内田吐夢
原作:水上勉
脚本:鈴木尚也
撮影:仲沢半次郎
出演:
三國連太郎(犬飼多吉/樽見京一郎)
左幸子(杉戸八重)
伴淳三郎(弓坂吉太郎)
風見章子(樽見敏子)
加藤嘉(杉戸長左衛門)
藤田進(荻村利吉)
高倉健(味村時雄)


内田吐夢という人は,サイレント期から活躍したキャリアの古い映画監督で,初期には左翼的な「傾向映画」の作家だったのだそうです。

戦前の作品では唯一,東京フィルムセンターで観た『土』(1939年)という作品が,「これぞリアリズムの極」ともいうべき素晴らしい出来ばえで,深く印象に残っていました。(この作品は10巻目が失われていて結末がありません)


この人,戦時中は満州映画にいて,戦後も中国に留まったためブランクが長く,帰国後はなぜか東映で時代劇をたくさん撮っているんですね。

なかでは中村錦之助の宮本武蔵シリーズが有名ですが,個人的には『血槍富士』(1955年)という作品が好きで,東映時代劇の明朗快活路線からいささか外れた,泥臭くも骨太な作風が魅力的でした。


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さて,本作は3時間におよぶ大長編ですが,不思議にそんなに長かった印象がありません。

冒頭,台風のさなか,二人の男が銀行から逃げ出すようすを,荒々しくスピーディーなトラックバックでとらえるシーンから一気に引き込まれ,あとはラストに向かってマッシグラです。


物語は終戦直後の混乱期に始まり,赤貧のなかで犯罪に手を染めて成り上がった男,その男とひととき交わりをもった酌婦,そして,男を執念深く追うあまり人生を狂わせた刑事,この三人の10年にわたる愛憎交錯のドラマが展開します。

三者三様でありながら,共通のキーワードは「貧困」。その頃,日本全体を覆っていた時代のキーワードでもあったのでしょう。


三国連太郎は,京都・山間部の貧しい寒村に生まれ,過去を隠しながら生きる主人公をいつもながら怪演。葛藤の多い複雑な人格描写はお手のものです。

左幸子は青森の貧しい農家に生まれた幸薄い女を,邪気のない奔放な演技で見事に演じきり,文字どおり出色の出来。

そして,迷宮入り後も事件を追い続けた執念の刑事役は伴淳三郎。喜劇人としてのコミカルな味わいをかなぐり捨て,シリアス一徹,意外にはまり役だったですね。

三人の役者の火花散る演技合戦はまさに見ごたえ十分です。


全体に手持ちキャメラによる撮影を多用し,骨太で重厚な作風にリアルな実存感を織り込むかのよう。

台風のシーンや回想シーンを粒子の粗いザラついた画像で表現しており,これは16ミリフィルムで撮影して,35ミリに引き伸ばす手法を用いたそうで,古いニュース映像を見るようなドキュメンタルなタッチでした。

そのほか,殺人など劇的な場面には,ソラリゼーションという白黒を反転させる処理が用いられ,貧血で意識が遠のく瞬間のような視覚的効果を演出しています。


残念なのは,あえて論理性を二の次にしたため,ミステリー作品として見た場合,どうしても詰めの甘さを感じさせること。

三国の事情聴取で,ある遺品を見せて「これが動かぬ証拠だ!」とやりますが,これはちょっとミステリーファンにはツラいものがあるでしょうね。


それともう一つ,どうしても最後まで引っかかったのは,主人公の生い立ちや赤貧を極めたという生家のようすが,いっさい映像化されなかったこと。

捜査会議における,ある刑事(それも無名の役者さん)の報告として,不自然に長いセリフで,貧困と犯罪の関連性が語られるだけなんですね。

これを映像化しないと,底辺から必死に這い上がろうとする人間の執念を描き出すには,どうしても説得力が弱い。

左幸子や伴淳については,貧しい家のようすや家族が描かれているだけに,なおさら奇異な印象が残りました。


実は,これは水上勉の原作についてよく語られることですが,底流に「ある問題」の影が横たわっているらしく・・。諸般の事情もあって,製作サイドはあえて「貧困」の映像化を避けたのかもしれませんね。

まあ,この件について,これ以上は語りますまい・・。


ともあれ,映画そのものに,些細なことはどうでも良いと思わせるだけのパワーがありますし,何より,あの「東映」で,時代劇から任侠路線への転換の狭間にこれができてしまったという奇跡に敬意を表して,この稿を閉じたいと思います。


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2006/09/09

『ロバと王女』 ~色彩と装飾と大人の童話~

1970年 フランス
監督・脚本:ジャック・ドゥミ
撮影:ギスラン・クロケ
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:
カトリーヌ・ドヌーヴ(王女)
ジャン・マレー(王)
ジャック・ペラン(王子)
デルフィーヌ・セイリグ(妖精)
ミシュリーヌ・プレール(王子の母)


先日,初めて大阪・吹田は千里中央にある「千里セルシーシアター」という劇場へ行ってきました。

千里中央といえば,かの70年万博(日本万国博覧会)のとき,会場の隣にできた街。

モノレールに乗って,子供のころ大好きだった「太陽の塔」を横目に,甘酸っぱい気分とともに,「その時代」に思いを馳せていました。

私は世代的に,70年代・・というより昭和40年代に対する想いが深く,大阪に育ったため,特にその時代を「70年万博」を一つの基点として思い起こします。

で,今回の作品は奇しくもその1970年の製作。万博のときにできた街で,万博の年にできた作品を観てきたわけです。


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さてさて,ジャック・ドゥミといえば,奇跡のようなミュージカル『シェルブールの雨傘』で有名ですが,同じミュージカル映画でも,本作は『シェルブール・・』のような唯一無二の作風を持つものではなく,ふつうに登場人物の歌が挿入される形式です。

ただ,作品自体が完全にオトギ話なので,劇中に突如として歌が挿入されても違和感がないですし,私がもっとも苦手なアメリカン方式の集団で歌って踊って,をやらないので,楽に観ていられました。


ストーリーはシンデレラ物語のパロディみたいだなと思っていたら,シンデレラと同じシャルル・ペローの原作なんだそうですね。

ある国に金銀財宝を排泄するロバがおり,そのため国王(ジャン・マレー)はたいへんな大金持ち。


ところが,王妃が若くして亡くなり,「私より美しい女性と再婚して」と遺言を残したため,王はなかなか再婚できません。

あるとき王は,長らく遠ざけていた王女(カトリーヌ・ドヌーヴ)こそが王妃より美しいのだと気づき,なんと自分の娘に結婚を迫ります。

王の申し出を断るため,王女は妖精の入れ知恵で,財宝を生むロバの毛皮がほしいとワガママを言いますが,王はホントにロバの毛皮を剥いで持ってきます。

妖精の手助けで,王女はロバの毛皮をかぶって城を脱出。よその国で下働きに身をやつし,そこへ,いよいよ王子様の登場と相成ります。

目に映る造形物がいちいちエキセントリックで,王妃の棺がSF映画に出てくる睡眠カプセルみたいだったり,厳ついジャン・マレーの王座が可愛らしいネコの椅子だったり・・。

一方で,王女の国では,なぜか兵士や馬のヒフが青色に塗られ,一方の王子の国では,赤色に塗られていたりで,徐々にセオリーを気にしない独特な世界観にハマっていきます。


青く塗られた家来のなかに,一瞬,乳房を露わにした女性が映りますが,観られた方,気づきましたかね。また,森の妖精の棲み家に,さりげなく電話が置かれていたりして・・。

こういう姑息なイタズラを入れつつ,ラストの王女と王子の結婚披露は,かなりぶっ飛んだフィナーレで,「そんなアホな」という印象ですが,何でもアリな世界観の中では,これもアリかなというところでしょうか。


ジャン・マレーやミシュリーヌ・プレールが配役されていたりして,「二人とも歳だな~(^^」という感じはしても,フランス古典映画ファンとしてはうれしいところ。

逆に若き王子役のジャック・ぺランは,G・トルナトーレの『ニュー・シネマ・パラダイス』では少々くたびれたオジサンでしたが,この頃はさすがに若いですね。


全体に罪のないファンタジーですが,娘と結婚するとかロバの皮を剥げとか,ちょっと生ぐさい印象だし,王子サマの花嫁探しではけっこう女たちの赤裸々な生態を描いていたりで,やはり子供向けではなく,大人の童話といったところでしょうか。


何ゆえ,この作品をいまデジタル修復したのだか,事情は定かではありませんが,色彩と装飾の洪水のような本作は,ある意味,もっとも修復のし甲斐がある映画だったかもしれません。


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2006/09/05

『アギーレ・神の怒り』 ~アマゾンの魔境と偏執狂~

1972年 西ドイツ
監督・脚本:ヴェルナー・ヘルツォーク
撮影:トーマス・マウホ
音楽:ポポル・ヴー
特殊撮影:ミゲル・バースケイス
出演:
クラウス・キンスキー(アギーレ)
ヘレナ・ロホ
ルイ・グエッラ
セシリア・リベーラ


第七藝術劇場で,今週と再来週,ヴェルナー・ヘルツォークの旧作2本の上映があり,今週は『アギーレ・神の怒り』がかかっています。

個人的に,「ニュージャーマンシネマ」と括られる作家群では,ヴェンダースぐらいしかチェックしておらず,ヘルツォークなんて『ノスフェラトゥ』しか観ていないようなテイタラクでしたが,今回は良いチャンスなので,さっそく観てきました。


本作の舞台は,16世紀の南米アマゾンの秘境。インカを征服したスペイン総督ピサロの軍は,伝説のエル・ドラード(黄金郷)を求めてアンデスを越え,アマゾンの密林を彷徨します。

果てしないジャングルに阻まれ,行きづまったピサロは,分遣隊として40名のみを奥地に派遣しますが,この分遣隊の副官が怪優クラウス・キンスキー演ずるアギーレなのです。

黄金郷の妄想に囚われるアギーレは,徐々に敵対分子を排斥してゆき,ついに分遣隊の覇権を握りますが・・。


冒頭,気の遠くなるような峻険な断崖をスペインの行軍がへばりつくように歩く様を,キャメラは超ロングショットでとらえ,徐々に視点を下げて,手前の行軍へと焦点を合わせていきます。

この壮麗なワンショットには,まったく息を飲むようなスゴミがありますね。


何しろ,全編が現地でのロケーション撮影で,中世ヨーロッパのイデタチの兵士や淑女,宣教師が,現地調達のインディオとともに,本当に大アマゾンの秘境を行軍するという前代未聞のシーンには,思わず目が吸い寄せられます。

分遣隊が危なっかしいイカダに乗って,ゴウゴウと唸りを上げるアマゾンの濁流を下るシーンなど,本当に役者を乗せて,まさに命がけの撮影という感じで,どうやって撮ったのだろうと感心しきり。


「スゴイだろう」と問われたら,「いや,スゴイですねぇ」と答えるしかないですね。

実際にこんな映像は,例えばナショナルジオグラフィックの探検ドキュメンタリーでもなければ,なかなかお目にかかれる代物ではないでしょう。


ところが,「劇映画」として見たとき,どうも奇異な感じがするんですね。どこか何かが欠けているような・・。

こういうある程度,評価の定まった作品について,可笑しなことを書くと何をいわれるか分かりませんが,恐れずに感じたまま書いてしまいましょう。


行く手をさえぎる大自然のダイナミックかつ深遠なるモーションに対して,アギーレ以外の「人の演出」がまるで止まっている感じなんですね。

ただ突っ立ったり,座ったり,寝転がったりする人物の間を,アギーレが睨みつけ,右肩をぶら下げるようにノシ歩くシーンが繰り返され,キンスキーの怪演ばかりが目につくのです。

もちろん役者たちは,歩いたり会話したり,何か食べたり,アギーレの暴挙に葛藤したり,それなりに動いてはいますが,アギーレに対峙したり,大自然を舞台に奔放なモーションを示す者は誰もいない(いるとすれば暴れ馬だけ)。


だいたい,ふっくら肥えて血色の良い役者が,ただ無気力に横たわっているだけで飢餓状態を表現しようなんて土台がムリだし,一方,皆が飢えて立つこともできないのに,アギーレだけが最後まで同じ調子でノシ歩いているなど,少し演出が破綻気味ではないかと思われるほど。

ともかく,「人間の表現」において,大自然のリアルと対置するだけの運動性や迫真性を欠いている印象なのです。


どうやらこの作家は,アマゾンの魔境と偏執狂的な主人公(偏執狂的という点で作家の分身かもしれない)を描く以外に興味がなかったようですね。


そして,ラストに登場する猿の群れだけが,作家の演出とは無縁のところで,アギーレと対置するにふさわしい映画的なモーションリズムを獲得していて,このシーンが何だかいちばん魅力的だったような気がするのです。


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2006/08/20

『東京物語』&『晩春』 ~お腹いっぱい小津安二郎~

大阪・九条はシネ・ヌーヴォで開催中の「松竹110周年祭」では,小津安二郎の作品が3本かかります。

先日はそのうち『東京物語』(1953年)と『晩春』(1949年)という極めつき2本を観てきました。


小津安二郎の作品を劇場で観るのはかなり久しぶりで,このブログを始めて1年半ほどになりますが,意外にも小津作品について記事を上げるのは,実はこれが初めてなんですね。

3年前,小津生誕100周年の際に,東京フィルムセンターはじめ各地の劇場で小津安二郎特集が組まれ,その折にかなりの作品を観ているのですが,どうやらこの1年半は,劇場では観ていないことになります。


いまや世界中でアンチハリウッドの名だたる映画人から敬愛されるこの巨匠の名品群は,しかし作家本人の意図を外れ,いささかアクロバティックな解釈がなされ過ぎている印象があります。

個人的にそういうことに倦んでいるところがあって,どこか無意識のうちに,私は小津作品を遠ざけていたのかもしれません。


さて,衆目の一致するところ,『東京物語』に『晩春』といえば,小津作品の中でも双璧をなす2作ということになるのでしょう。とりわけ『東京物語』は,世界映画史上に屹立する金字塔の1本ですね。


じつは白状しますと,小津作品で私がいちばん好きなのは,コメディタッチで罪のない『麦秋』(1951年)なのです。

ほかに,戦前なら異色作の『非常線の女』(1929年),戦後なら芳醇な味わいのカラー作品,例えば軽いタッチの『彼岸花』(1958年)や『浮草』(1959年),半ば『晩春』のリメイクともいえる『秋刀魚の味』(1962年)など。


映画の完成度と個人的な好みというのは別物ですから。今回観た2作は重厚で充実してはいるけれど,そんなに好きな作品というわけではないのです。

まあでも,実際に観なおしてみると,やっぱり小津安二郎は良いなという感慨があり,特にこの2作を続けて観ると,ホントお腹いっぱいになりますね。(^^


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およそ映画の撮影・編集技法として挙げられるものの大半を無視し,ただスタンダードサイズの固定カットをつないだだけの映画が,何ゆえこれほど人を惹きつけるのか?

キャメラは,移動はおろか首を振ることすらガンとして拒絶し,徹底してローポジション一辺倒で被写体を捉えつづけます。クレーンを使った俯瞰シーンなんて見たことがありませんね。


そこにあるのは,畳とふすまと鴨居で区切られた空間をただ人物が立ったり座ったり歩き去ったりするリズム,人物の正面ショットを切り返す会話のリズム。

そして,誰もいなくなって空間だけが残されるリズムや,同じ場所では同じアングルだけを繰り返すリズム・・。

これら特異な映像リズムによって紡ぎだされるのは,日本家屋の中で展開される日本のホームドラマにほかなりません。


ふつうの人が,ふつうに歓び,ふつうに悩み,ふつうに諦め,ふつうに生きていくその過程を,なんのテライもなく正面からフィルムに定着し,そこには,個性の強い人物もとんでもない悪辣な輩も登場せず,劇的な事件も波乱万丈で数奇な人生も描かれず・・。

それでいて,どんな退屈な映画ができ上がるのかと思えば,観るたびにその豊かな映像に魅了されてしまうのです。


それは例えば,正面から語りかけてくる原節子を見上げる高揚感であったり,笠智衆の首から背にかけての曲線が生む安心感であったり,東山千栄子がいなくなったあとの空間の寂寥感であったり・・・。

アングルの隅々にまで気を配り,人物が座る背の丸みから小道具の位置までを微細に調整し,それを常にローアングルからウヤウヤしく見上げる視線。

一方で俳優に大仰な演技を許さず,余分なものをそぎ落として人間の典型を見せるかのような演出。


シンプルでバランス感覚に富んでいながら,じつは不自然なほど作為的なそのスタイルによって,被写体の持つ美しさや優しさ,寂しさやヤルセなさ,さらには人物のプライドまでが素直に表出し,スクリーンを潤すかのようです。


いくら小手先の技法を労したって,結局のところ,瞬間,瞬間で2次元の四角いスクリーンに収まるものには何ら変わりはない。それならば,余計な小細工は一切やめて,基本的な技法のみをひたすら磨きあげよう。

小津安二郎はそんな映画職人であったのではないかと感じます。


まあ,理屈っぽいことはもうやめにしましょう。(^^

今回,下町シネ・ヌーヴォの上映会では,近所のオバちゃんたち(?)が,素直に笑ったりすすり泣いたりする声を聞きながら,実はこれこそが小津安二郎の本質なのかもしれないと,何かそんな気がして,これまたお腹いっぱい,帰途についたのでした。


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2006/08/16

『Respect 川本喜八郎』 ~恐るべし!傀儡世界の奇跡~

昨日,用があって京都へ出たので,帰りに東寺さんの近くにある「京都みなみ会館」に寄って,川本喜八郎の短編集を観てきました。


川本喜八郎といえば,昔,NHKの人形劇の人形を作っていた作家のうち,辻村ジュサブローじゃないほうの人,ぐらいの知識しかなかったのですが,その世界では国際的な大家なんだそうですね。

近ごろ,新作『死者の書』(2005年)がクローズアップされたり,気になっていたこともあり,今回,個人的にはまことに異例ながら,人形アニメを劇場へ観に行ったのでした。


ハッキリいいましょう。これはスゴイです! 何がスゴイかって,スゴイんだからスゴイんです。(^^

夜8時からの上映で,疲れていたのできっと眠くなるだろうなと思っていたのですが,トンデモナイ!

たいへん失礼をいたしました。御見それしておりました。もう最初から最後まで目がスクリーンに釘づけ状態でありました。


今回かかったのは,これまでに川本氏が制作した短編のうち7本を寄せ集めたもので,いちばん長いので22分,短いのはわずか1分というラインナップ。


『アサヒビールCM集』(1959年/約5分)
『鬼』(1972年/約8分)
『道成寺』(1976年/約19分)
『旅』(1973年・2006年リミックス版/12分)
『火宅』(1979年/19分)
『セルフポートレート』(1988年/1分)
『いばら姫 または ねむり姫』(1990年/22分)

このうち『旅』だけは切り絵アニメで,シュールレアリスティックな,例えばダリやマルグリット,キリコなどに触発されたようなタッチの作品でした。


さて,「人形アニメ」というと,子供のころ,旧ソ連など海外の作品を観た記憶はありますが,今回の作品群を観るまでは,その表現手法について,私は何も知らなかったも同然。人間の代わりに人形を使った実写作品みたいに思っていましたが,まったくの誤解でした。

じつは,ふつうの実写劇映画とはまるで世界の違う表現媒体だったのです。


人形を使うといっても「アニメ」ですから,「人形劇」のように黒子の操演者が動かしているのを同時撮影したのではなく,クレイアニメなんかと同じコマ撮り作品ですね。


人形の顔は,時おり目を閉じたりする以外は,物理的に表情が変わるわけじゃないんですが,それがうつむいたり,横を向いたり,ちょっとした角度や照明の当てかたの変化で,表情が微妙に変わり,まるで内から感情が湧きだすかのよう。

これは,顔自体のつくり方にポイントがあって,眉間に少し凹凸が彫られていたりして,角度によって表情が変わるように最初から設計されているようです。


しかし,何といってもスゴイのは,髪をなでる指先の動きなどちょっとした仕草の迫真的なこと。その動きは信じがたいぐらい繊細で,まるで神経が通っているかのごとく,ホントに生きているかのようなのです。

人の手で少しずつ動かしてコマ撮りをしているわけですから,それはもう,職人技の奇跡としか言いようがありません。人形に魂が込められるとは,まさにこのことでしょう。


そして何より,私たちが認識しなければならないのは,「人形アニメ」という表現媒体(メディア)自体がまったく独自の世界観を持つものであること。それは決して劇映画のパロディではなく,それに追従するものでもありません。


当たりまえですが,人形アニメの世界には,生身の人間は存在しません。

で,映像自体に俳優の演技など余分なファクターが介在しないので,スクリーンに表出する映像は実にピュアで洗練されているのです。

人形は,たとえ火炎のなかに放り込まれても,俳優が見せるような苦悶の表情を浮かべることも,泣き叫ぶこともなく,ただ,様式化されたモーションによってすべてを表現します。


これが実写劇映画だと,どうしても被写体である人間そのものが発する「不純物」が表面に出てしまいます。

観客も「彼は演技が上手い」とか「ぜんぜん役のイメージに合っていない」とか,常に主観や先入観,既成概念などに起因する曇ったフィルターを通して観ます。


ところが,人形アニメの場合,そういうものがまったくないんですね。そこに描出されるのは,純化された人間のモデル(典型)であり,人間世界のモデルであり,人間の情念や業のモデルでもあるのです。

こういうのは,俳優を被写体とした劇映画では表現不能な領域でしょうね。


人形師によって紡ぎだされる傀儡(かいらい)世界は,ピュアでシュールな魅力に満ちた未知の別世界であります。

もし,その映像に不思議に観る者を惹きつける力があるのだとすれば,それは,極度に様式化されたイメージの中に,「人間」そのものの本質をシンプルに描き出す力があるからなのかもしれません。


それにしても・・,何で「瀬川瑛子」なんだろう?


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2006/08/13

『古都』 ~斜陽化時代の不幸~

1963年 日本/松竹
監督:中村登
原作:川端康成
脚本:権藤利英
撮影:成島東一郎
美術:大角純一
音楽:武満徹
出演:
岩下志麻(千重子/苗子)
吉田輝雄(竜介)
長門裕之
宮口精二
東野英治郎


先日,シネヌーヴォ(大阪・九条)の「松竹110周年祭」で観た1本です。

監督の中村登という人は戦前から70年代まで撮っていたようで,何本か観てはいますが,どちらかというと商業映画をふつうに職人的に撮る人という印象があります。


本作は人も知るとおり川端康成原作の映画化で,数奇な運命をたどる双子の姉妹の物語。

京の呉服問屋の店先に捨てられ裕福に育った千重子と,北山杉の里で一人働く苗子は,ある日,偶然に出会い,互いが双子の姉妹であることを確かめ合いますが…。


イチバンの見どころはやはりこの双子を演ずる岩下志麻の一人二役でしょうね。

この人,本作や前年の『秋刀魚の味』(1962年/小津安二郎)のころは,まだ二十歳をいくらか過ぎたぐらいで,清純な娘役が板についていて,ホントに綺麗なさかり。

こののち,二十代後半の『心中天網島』(1969年)のころには,もうどこか妖気漂う雰囲気になっていて,私が子供のころの岩下志麻のイメージは,セクシーで妖艶なオバサン(失礼^^;)だったですから,貴重な一時期の岩下志麻を堪能できる作品といってよいのでしょう。


一人二役ということは,当然トリック撮影が必要になります。観る側はもちろんハメコミ合成を使っていることを知っているし,背を向けていたり,顔を隠していたりする方は代役だとイチイチわかって観ますから,映画としてはかなり損をしていますね。

しかし,そこは岩下志麻の入魂の演技が素晴らしく,そんなこんなを吹き飛ばしてしまいます。この人,若い頃から演技面はかなり磨かれていたようです。


全体に露出をアンダー気味にして,色調をシブく抑えてますね。特に京の町屋の屋内シーンは照明も抑え目で陰影が濃く,リアリスティックでかげりの深い表現に特徴があります。

その分,特に前半は,岩下志麻の表情が鮮明に映るショットが少なくて,ちょっと残念だったかもしれませんが…。


一方で,武満徹の音楽がこの時期に流行った妙に不安をあおるような無機的な音調で,それが唐突に挿入されるんですね。

どちらかというと旧いタイプのクセの無いストーリーで,登場人物の心理的葛藤はあっても,本来,前衛性とは無縁な作品ですから,この音楽は映像やストーリーとの整合性を欠いている印象があります。

まあ,「不整合が醸し出す効果」ということには,それが成功しているかどうかは別にして,一考の余地はあるのかもしれません。

それは,登場人物の心象風景を表現しようとしたものか,観る側に言いしれぬ不安感をあたえようとしたのか…。


そして,この映画にはどうにも不明快な点が一つあるのです。それは岩下演ずる千重子と吉田輝雄演ずる竜介の冷めた関係性

竜介は,千重子の父が芸術家肌で商才が無く,番頭が帳簿を仕切っているのを心配している風を装い,千重子に近づこうとします。

ところが,竜介の不自然な無表情やデリカシーのない言動によって,どうも彼の本意が「愛情」ではないと映像の表面では語っているんですね。

そのあと,いよいよ竜介が乗り込んできて店を仕切りだしたときの,千重子の能面のような無表情。

そして,苗子との会話での「私,結婚するの」というセリフのいかにも冷めた響き。


「愛の不毛」を暗示するこの種の表現については,当時の前衛作品に影響を受けながら,映画の本質に絡むことなく,その部分だけどこか取って付けたようで,全体にうまく溶け込んでいない印象です。


60年代初頭といえば,ヌーヴェル・ヴァーグの嵐が吹き荒れた時代,映画のゲージュツ性に関するウンチクがうるさくなり,日本でも松竹ヌーヴェル・ヴァーグなんて怪しげな一派(一つにくくること自体無意味ですが・・)が台頭していた頃です。

本作には,そんな時代の,娯楽映画でさえ素直に撮ることができなくなっていた空気が感じられ,「新しい波」の周辺部で起こった不幸を垣間見るような気がします。

それはまた,映画が急激に斜陽に向かった時代の「不幸」の一端であったのかもしれません。


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2006/07/27

『近松物語』 ~おさんの眉と茂兵衛の目張り~

1954年 日本/大映
監督:溝口健二
原作:近松門左衛門
劇化:川口松太郎
脚本:依田義賢
撮影:宮川一夫
美術:水谷浩
音楽:早坂文雄
出演:
長谷川一夫(茂兵衛)
香川京子(おさん)
南田洋子(お玉)
進藤英太郎(大経師以春)
小沢栄(助右衛門)


この作品は,以前にBS放送で観たときにはさほどの感興はなかったのですが,今回,スクリーンで観なおして,たいへんイメージの変わった作品です。


近松門左衛門の世話物をもとにしているだけに,怪異譚の『雨月物語』や,説話物語の『山椒大夫』に比べると,ストーリーにも映像にもケレン味がなく,堅実で落ち着いた雰囲気で,どこか「大人の映画」といったイメージがあります。

派手さはないし,海外の映画祭で受賞しなかったためか,俎上に乗ることの少ない作品ですが,今回,滋賀会館で観た4作のなかでも,完成度という点ではひょっとして一二を争うのではないかと思いました。


『西鶴一代女』でもそうでしたが,並みの時代劇と違って,風俗描写や美術的造形には,かなりこだわりが強いですね。

香川京子や新藤英太郎の髷の結い方ひとつとっても,江戸末期の写真などで見るホンモノにかなり近く,リアルに仕上げられている印象があります。


そして,いつもながらの建築セットの素晴らしさ

日本家屋の構造を利した奥行きの表現,茂兵衛の仕事部屋の見晴らし,階段を使った立体的な舞台装置など,一つひとつが画づくりのために計算されつくした職人ワザといった趣きがあります。

宮川一夫の引き気味のキャメラワークが,この様式美を遺憾なくフィルムに定着しています。


一方で,本作は効果音の入れ方に特徴があって,三味線に笛や太鼓,拍子柝(ひょうしぎ)など歌舞伎の下座音楽を効果的に挿入し,映像に独特のリズム感を加えています。


ストーリー的には,前半と後半で大きく様相を変える構成ですね。

前半は大経師(京イチバンの表具屋)のお内儀だった「おさん」と手代の「茂兵衛」が,ひょんなことから姦通を疑われ,店を飛び出して追い詰められるという行き違いの顛末。

後半は一転して,二人の恋の炎が燃え上がり,激しい恋情のドラマになります。


切り替わりのポイントは,おさん(香川京子)の眉。それまで大店(おおたな)のお内儀として,お歯黒に剃った眉だったのが,茂兵衛への愛に目覚めたとたん,急にハッキリと眉筋が現れるんですね。


この眉が生えたあとの香川京子の熱演がかなりスゴイ!

逃避行の末にボロボロにやつれ,ヨロヨロに疲れ果てながら,茂兵衛(長谷川一夫)がひそかに去ろうとするや,半狂乱で追いすがり,土まみれの抱擁の凄まじいこと。


ここに大映きっての大物俳優,娯楽時代劇の大スターだった長谷川一夫が登場。こういう男性の花形スターが溝口作品に主演するというのは珍しいかもしれません。

四十も半ばを過ぎ,えらくトウのたった茂兵衛ですが,不思議なのは,それでぜんぜん違和感が無いこと。

溝口独特のクローズアップを避けるキャメラワークのせいもありましょうが,むしろ長谷川一夫の芸の確かさが証明された印象ですね。


いつものヒーローとちがって力無い色男ながら,女形(おやま)出身の引きをわきまえた物腰と,京都弁の柔らかいセリフ回しが板について,さすがこの道,数十年の大スター,抑えた大人の演技で香川の体当たりを受け止めます。

これが,ヘンに若手俳優を起用したのでは,きっと青臭くなってダメだったでしょうね。


長谷川一夫が面白いのは,時代モノではどんな作品でも,太い釣り眉にキリッと目張りを利かせて登場すること。

成瀬巳喜男の『鶴八鶴次郎』(1938年)や『三十三間堂通し矢物語』(1945年)でもそうでしたが,溝口作品といえども例外ではなく,ヤツれたりとはいえ,基本的に「銭形平次」などと同じ眉目秀麗な髷姿。


この歌舞伎出身の美男スターのやや浮いた存在感が,下座音の雰囲気や,独特な様式美と妙にマッチし,「リアリズム」などという一元的な尺度での括りを許さない絶妙なバランス感が醸しだされた印象です。

配役自体は,ひょっとして製作側の意向だったかもしれないですが,意外に成功してしまったという事例の一つなのではないでしょうか。


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2006/07/25

『西鶴一代女』 ~ミゾグチパワー全開!~

1952年 日本/新東宝
構成・監督:溝口健二
原作:井原西鶴
脚本:依田義賢
撮影:平野好美
美術:水谷浩
出演:
田中絹代(お春)
山根寿子(奥方)
三船敏郎(勝之介)
宇野重吉(扇屋弥吉)
菅井一郎(お春の父新左衛門)
進藤英太郎(笹屋嘉兵衛)
大泉滉(笹屋番頭文吉)
毛利菊枝(老尼妙海)
沢村貞子(笹屋女房お和佐)


今回の滋賀会館での「没後50年 溝口健二の世界」では,『西鶴一代女』,『雨月物語』,『山椒大夫』,『近松物語』と,溝口の戦後の名だたる代表作4本がかかり,2日通って4本とも観ました。

じつはこの4作については,これまで劇場で鑑賞する機会がなかったので,私にとっては,千載一遇のチャンスだったのでした。


で,映画史上に名高いこの4作を見比べて,さて,どれがイチバンか? という究極の選択を迫られたならば,やはり,映画そのものの持つパワーという点で,この『西鶴一代女』を第一に推すべきかなと思います。

ただし,一般的な水準からいって4作すべてが頭抜けていますから,ちょっと見かたを変えれば,すぐに評価は変わることでしょう。

私自身,完成度やバランスという点では,またちがった考えを持っていますから。


さて,本作は井原西鶴の『好色一代女』をベースに,「お春」という,どこまでも変転浮沈の人生を繰り返す女の半生記。

「波乱万丈」とはまさにこのこと。大女優・田中絹代にとっても一世一代の大熱演だったのではないでしょうか。


数奇な運命をたどる女の生き様を,キャメラは冷酷なほど客観的に引いた視点から凝視します。

そこに描出されるのは,暴力的な惨たらしさではなく,運命にもてあそばれ落ちてゆく無残さ,女としての尊厳をもぎ取られる恐ろしさ。

それも,主人公自らの性癖による因果ではなく,実の父をはじめとする身勝手な男たちの思惑に翻弄されてのこと。これは溝口作品に通底する「女虐め?」の世界観そのものといってよいでしょう。


ホントにいったい,どこまでもてあそべば気がすむのか,といった感じですが,最後の最後に運命の連鎖を断ち切るのは,母として子を想う執念。

まこと,かのシーンの凄みはタダゴトではありません。

大名家の継嗣となった実の子を追うお春。大名屋敷の長い廊下をすがり寄り,家臣たちに抱えられ押し戻され,振りほどいてはまたすがろうとするモーションの迫真力。

この長い芝居を,これぞ溝口!という移動・長回しでワンショットに収めきったクライマックス。ここに,女はついに自らの力で変転する運命に終止符を打つことになるのです。


4作の中では,おそらく最も長回しにこだわり,芝居を切らない演出に執着している印象がありますね。

キャメラは滑らかに移動しながら,長い長い芝居を凝視しつづけ,演者の内面から湧き上がってくる気迫をフィルムに定着していきます。


また,ときにサイレントのように音を殺して見せることで,哀感を際立たせるかのようです。

お春が三味線引きの乞食にまで身を落とし,わが子をのぞき見るシーンでは,延々とほぼ無音状態で哀しい場面を見せられたあと,寒さにふるえ,むせび泣く声の胸に滲みること…。


そして忘れてならないのは,今回の4本のうちで,本作は唯一「笑い」の間を埋め込んだ作品であること。

お大名の嫁探しの場面はいうにおよばず,ニセ金長者の狂気や,尼僧が嫉妬に泣き狂う場面など,人間の愚かさや可笑しさを描出するシーンが映画にエキセントリックな味付けをし,見終わったあとの余韻にも深みを与えている印象があります。


昭和27年(1952年),ベネチア国際映画祭で国際賞を受賞。世界に「ミゾグチ」の名を知らしめ,いまだ世界映画史にその名を刻する名作。劇場で観ることができたのは,真に幸運の至りでありました。


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2006/07/20

『巴里の屋根の下』 ~表現技法の見本市~

1930年 フランス
監督・脚本:ルネ・クレール
撮影:ジョルジュ・ペリナール,ジョルジュ・ローレ
出演:
アルベール・プレジャン
ポーラ・イルリー
ガストン・モド


本作は,フランス映画にトーキー時代の到来を告げた歴史的名作であり,フランス映画史を語る上では基本的な作品なのですが,私自身ずいぶん昔に観たきりで,ほとんど忘れかけていました。

で,しばらく前にCSで放映されたときに録画してあったので 今回,ひさびさに観ることができ,新しい発見がけっこうありました。


ルネ・クレールという人が,才気走った技巧的な作家であることはよく語られるところですが,特にトーキー第1作のこの映画では,その傾向が顕著だなと改めて思いました。

トーキーという新しいテクノロジーを使うために,企画段階から,そうとう綿密に設計がなされている印象ですね。


それまで映像(と字幕)だけで構成されていた映画に,音声を加えることになったとき,いかにしてそれを「映画の表現」として消化するのか。

クレールが出した答えは,セリフを極端に抑え,あえて音声を遮ることで,逆に「音」による効果を際立たせること。


フランストーキーのパイオニアでありながら,およそ6割がたはサイレントの表現技法を踏襲している印象で,パントマイム的な動作にBGMを流すだけみたいなシーンが多いんですね。

そして,例えば人物同士の会話をガラス越しに見せることで,擬似サイレント空間をつくり,ガラス戸を開けた途端に音があふれ出すなど,いかにもトーキーならではという感覚表現を見せます。


一方で対照的に,暗闇を利用して映像を隠し,「音」だけで表現するシーンを要所にはさんでいて,これがまた,かえってイメージを鮮烈にしています。

いささかアザいとはいえ,今観ても斬新な表現技法だと感じるところです。


さらに,クレール映画独特の流麗なキャメラワーク

有名な冒頭のワンショット,煙突が突き出すパリのアパートメントの屋根から,地上でアルベール・プレジャン演ずる街頭歌手が唄う人だかりへと流れるようにキャメラを降ろし,いつしか観る者を物語世界へといざなう見事な演出。

クレーンに乗って上下に大きく移動するキャメラで,アパートメントの窓からパリ庶民の暮らしをのぞき見るなど,のちに多くのパロディを生んだ名シーンの数々。


主人公を演じたアルベール・プレジャンはクレール映画の常連で,どこにでもいそうなパリの若者像を典型的に演じて,ハマっていますね。

ポーラ・イルリーは『巴里祭』では毒気の強いアバズレ女の役でしたが,ここでは気まぐれながら,純情可憐なヒロインを演じていて,それなりに魅力的。

(この人,じつはクレールの奥さんになったという噂ですが…?)


映画としての完成度では,やはり『巴里祭』(1932年)に一歩譲ると思いますが,トーキーにおける表現手法のお手本ともなった,考えられる限りの技法のオンパレード。

「トーキーは映画の芸術性を破壊する」なんて言われ混乱を極めた時代に,「音」と「映像」のミックスしだいで斬新かつ豊かな表現がなし得ることを実証し,巨匠ルネ・クレールの名を世にとどろかせた名編であります。


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2006/06/30

『燈台守』 ~いちばんの掘り出しモノ!~

1929年 フランス
監督:ジャン・グレミヨン
脚本:ジャック・フェデー
撮影:ジョルジュ・ペリナルほか
出演:
ジェニカ・アタナシウ
ガブリエル・フォンタン
ジェイモン・ヴィタル
ポール・フロメ


いや,これはホントに掘り出し物でした。

今回,フィルムセンターのフランス古典映画特集で観たなかでは,私にとって文句なく最大の収穫だったといえます。

ジャン・グレミヨンについては,これまで名前しか知らなくて,作品を観たのはこれが初めて。

作品数ではブレッソンなどより少ないぐらいしかリストアップされない寡作な人で,そこいらの映画史の本などひも解いても,何者だかよくわからないのです。

どうやら,ジャック・ベッケルやアンリ=ジョルジュ・クルーゾーらと同じく,第二次大戦中のドイツ占領下に台頭した映画作家で,戦後も何本か撮ったようですが,早くに映画界から足を洗ってしまったようですね。


さて,本作は犬に咬まれた青年とその老父が燈台守として燈台にこもる間に,青年が狂犬病を発病し,徐々に狂気に駆られだし,悲劇的な結末を迎える物語。

黒澤明がある雑誌で,ブニュエルの『アンダルシアの犬』について,燈台守が狂犬病にかかる話だとかトンチンカンなことを語っているのですが,どうやら,この映画と混同していたのだとわかりました。


何がスゴイといって,まずはロケーションの良さ。これほどロケ映像を効果的に取り入れた作品は,この時代のフランス映画としては珍しいのではないでしょうか。


海辺の燈台が舞台になるのですが,青年と父親が小船で燈台に赴任するシーンで,岸壁にそそり立つ燈台の威容を,波に揺られる船上から撮影したショットの素晴らしいこと。

船がユラユラと上下に揺れるたび,黒々とした燈台の巨影がアングルに収まったり外れたりするモーションリズムの生々しさ。

そして,リズミカルに寄せては返す白い波濤の生き物のような躍動感。ひとたび海が荒れると,岩礁に襲いかかっては凶器のように暴れまわる大波の恐ろしさ。


グレミヨンという人はもとはドキュメンタリーの作家だったそうで,こういう作為性のない被写体の魅力を感覚的によく知っている人だったのだと感じました。


それと対照的なのは燈台の中の場面。シュールで感覚的な光と影の表現は,どこかドイツ表現主義の影響を感じさせます。

例えば,巨大なレンズの内側に灯をともすシーンの不思議な美しさや,狂犬病を発病した青年が光を恐れ,幻覚に苛まれるシーンの切迫感。現実と非現実が交錯する感覚的表現の凄み。


中盤で,物語の進行と関係なく唐突に,村人が民族衣装を身にまとって踊る祭りのようなシーンが挿入されるのですが,それまで藍の染色画面だったのに,ここだけセピアのモノクロ映像になります。

これはいったい現実なのか夢なのか? しかし観ているうちに,スクリーンに投影されるモーションイメージの魅力に幻惑され,現実だろうが,夢まぼろしだろうが,そんなことはどうでもよくなってしまいます。


脚本をジャック・フェデーが書いていて,しっかりストーリーのある映画なのに,全体にアヴァンギャルドの匂いが漂っていますね。


さらに言えば,「サイレントなのに音が聞こえる」なんて月並みな決まり文句が,この映画には,そのまま当てはまる感じなのです。

嵐の夜,いよいよ青年は発狂し,ついに燈台の灯が消え,命綱を失った船が暗礁に近づき,霧笛を鳴らす。それを聞いた父親が灯をともそうと息子と取っ組み合いになります。

そこでは,蒸気を吐き出す霧笛のクローズアップ,悩み苦しむ父親の表情,灯の消えた燈台などをカットバックでつないで見せ,まさに(無いはずの)音が聞こえる緊迫感を演出しています。


観終わってともかく,「これはサイレントでよかった」というのが第一印象。

音の必要性をまったく感じないし,映像だけで十分で,音などあっても邪魔になるだけだという感覚ですね。こういうサイレント映画って,けっこう貴重です。


それにしても,こんな作家を今まで知らずに過ごしてきたとは…。やはり個人的にもっと発掘作業を進めないといけませんかな。(^^


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2006/06/26

フランス古典映画のキッカイな字幕 <その2>

3つ前の記事で,フランス古典映画の字幕のことで,ちょっとエラソウに問題を出しておきながら,続きがまだでした。取りあえずは答えから。

問題は「百法」,「三鞭酒」,「妾」の3つの語の意味(読み方)でしたね。


「百法」は出題のしかたがよくなかったようです。「法」が問題で,「百」の部分は,10でも1000でも100万でもかまわないんです。

そうです,「法」=「フラン(フランスの通貨単位)」なんですね。広辞苑で「フラン」の項を見ると,ちゃんと「法」とありましたので,どうやら間違いないです。(けっこう自信なかったりします。^^)


「三鞭酒」は字からしてもお酒の名称。フランスの酒といえば,ワイン(葡萄酒)と…,そう「シャンパン」です。これはご存知の方もけっこういらしたのではないでしょうか。


「妾」ですが,これ「妾が付きあってあげる」とか「妾のことどう思う?」なんて使うんですね。恥ずかしながら,最初のうち,この時代のフランスはえらくおメカケさんが多いな,なんて思っていました。(^^;

これ,おもに女性が自分を指すときに使う一人称で,本来は「わらわ」と読むようですが,字幕では「わたし」とか「あたし」と読ませていたようです。


1930年代公開のプリントになると,こんなのがポンポン出てくるもので,解かりにくくて仕方ありませんが,でも旧字体でさえなければ,まずは大丈夫。

もっと恐ろしいのはサイレント期の日本の時代劇で,何せインタータイトルが旧字体の塊だったりすることがあって,そりゃもう大変です。


ところで,字幕の話をしているうちに,数年前,同じようにフィルムセンターの何かの特集で観たアナトール・リトヴァクの『うたかたの戀』(1935年・フランス)という作品を思い出しました。

この映画はシャルル・ボワイエ演ずるオーストリア皇太子と,ダニエル・ダリュー演ずる令嬢の悲恋物語。

ともかくダリューが信じられないぐらい綺麗なので有名な作品ですが,これも公開時のプリントだったようで,けっこうキッカイな字幕体験をいたしました。


ボワイエのセリフに「身共」という文字が頻繁に登場し,この「身」の字が略したような書き方だったため「耳」に見えて,「ミミドモ」とはいったいなんだろう? とけっこう悩みました。

これ「みども」と読むんですね。武士などが自分を指すときの一人称で,昔の時代劇ではよく使われた言いかたでしたが,しかし改めて文字で見せられると,やっぱり面食らいますよね。


作中,ボワイエとダリューは家柄の違いから無理やり引き離され,健気なダリューが矢も盾もたまらず恋しいボワイエのもとへ駆けつけるシーンがあります。

そこで愛し合う二人は走り寄り,絶世の美女ダニエル・ダリューの開口一番。

「さあ,早やう接吻して下され」 (・_・;

ズルッと滑りそうになりますが,この字幕では,どうもあまりロマンチックじゃありませんね。当時の感覚ってこんなだったのかと,隔世の感もひとしお。


クラシック映画を観ていると,こういうことって多いのですが,映画を映画として楽しむのと同時に,骨董品鑑賞の側面もありますから…。

でも,そこがまた楽しかったりしてクセになるわけです。(^^


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『イタリアの麦藁帽子』 ~計算された笑いの構図~

1927年 フランス
監督・脚本:ルネ・クレール
撮影:モーリス・デファシオ,ニコラ・ルダコフ
美術:ラザール・メールソン
出演
アルベール・プレジャン
オルガ・チェホヴァ
マリーズ・マヤ
アリス・ティソ


さてさて,フィルムセンター「フランス古典映画」特集もそろそろ終盤にかかってきました。

これは先週観たルネ・クレールのサイレント期の作品で,映画史的には有名な1本。一般には『イタリア麦の帽子』という邦題で広く知られています。

クレールらしい洒落た感覚の喜劇ですが,サイレント期に流行ったスラップスティックとはちょっと趣きが違って,どこか計算されつくしたような理知的なタッチですね。


結婚式の日,アルベール・プレジャン演ずる新郎が馬車で新居に向かう途中,馬が道ばたにあった麦藁帽子をムシャムシャかじってしまい,それがヒゲの中尉と浮気していたある婦人の帽子だったことから,話はコジレていきます。

新居に中尉と婦人が押しかけて来て,イタリア麦の帽子を弁償するまで帰らないと居座ってひと騒動。新郎は取りあえず結婚式に出ながら,隙をみては帽子を手に入れようとしますが…。


アメリカの喜劇みたいに,最初から可笑しくて仕方ないといったつくりではなく,冒頭から粛々とディティールに拘った小さなクスクスを積み重ね,少しずつ「笑いの伏線」を張りながら,ある時点からドッと弾けるといった構成です。

特にプレジャン演ずる主人公が,パーティでダンスをしながら,ヒゲの中尉が自分の家で暴れだす妄想に駆られるあたりで可笑しさは臨界点に。

ベッドやイスが勝手に家から出てくるわ,家そのものが破壊されるわの妄想シーンで,ついに笑い爆発。

さらに浮気婦人のイカツい夫が登場し,クレール映画らしい「追いかけっこ」が始まってからは連鎖的な笑いのオンパレードになります。


タイトルになっている「帽子」のほか,靴や手袋,ネクタイなど,身だしなみに関する姑息なギャグをしつこく繰り返すのですが,これは,外見を整えることばかりに熱心で中身の怪しいフランス中流階層に対する諷刺だったのかもしれません。

中でも可笑しかったのは,すぐにネクタイがずれてしまうオジサンで,奥さんが目くじら立てて咎めるもので,そのあと,オジサンは奥さんと目が合うたびネクタイばかり気にするという構成的なギャグ。

また,耳の聞こえにくい老人の調子のずれた動作を要所に挟んでリズムを外してみたり,作品全体にスッとぼけていながら計算された笑いという印象があります。


それにしても,サイレントなのに,インタータイトル(中間字幕)が極端に少ないですね。フランスのサイレント全体の傾向はわかりませんが,できる限り映像の流れで表現しようとするスタイルへの拘りを感じます。


また,美術はこのときすでにラザール・メールソンが担当していたんですね。

この人は30年代初頭,クレール作品のパリの造形を一手に担った装置家で,オープンセットでパリの街角を丸ごと再現してしまうというスゴ腕の職人。

本作では,19世紀末の街並みを実にリアルに再現して力があります。(その時代のフランスの街並みを私が知っているわけじゃありませんが…。^^)


主演のアルベール・プレジャンは,もとは第一次大戦に従軍したパイロットで,ルネ・クレールに見出されてスターになった人ですが,この作品では,サイレント映画によくある「白塗り二枚目」で,トーキー以後の作品とは別人のよう。

デュヴィヴィエやカルネの映画では,今ひとつパッとしない印象ですが,不思議にクレール映画ではいいんですね。

ルネ・クレールという人が,本質的に俳優の奥深い演技を求めるタイプではなく,どこかカリカチュアされた軽妙洒脱な人物造形を重んじる傾向だった点で,ピタリとはまったのかもしれません。


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2006/06/24

『悪魔のような女』 ~フランス式サスペンスのお手本~

1954年 フランス
監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
原作:ピエール・ボワロー,トマ・ナルスジャック
脚本:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー,ジェローム・ジェロニミ
撮影:アルマン・ティラール,ロベール・ジュイヤール
出演:
シモーヌ・シニョレ
ヴェラ・クルーゾー
ポール・ムーリッス
シャルル・ヴァネル


フィルムセンター「フランス古典映画」特集から,これはずいぶん久しぶりに観た作品です。


「この映画の筋書きは誰にも教えないでください」という警句で始まるこの作品は,一面ショッキングな映像を売り物にしながら,筋立てはカッチリしており,伏線とトリックを駆使して鮮やかな結末をもたらす良質のスリラーミステリーでもあります。

ボアロー&ナルスジャックの原作がシッカリしていたのと,背景や人物の設定を映画向けに思い切って変えた脚色が成功したのでしょう。


これはある私立の寄宿学校を舞台にした男女の愛憎ドラマで,P・ムーリッス演ずる横暴で独裁的な校長が,ヴェラ・クルーゾー演ずる妻を尻目に,同じ学校の別の女教師(S・シニョレ)を情婦にして,その関係を見せつけるという異常な三角関係がベースになっています。

この妻と情婦が共謀して,校長の殺害を企てるところからストーリーは始まり,犯行後の「死体」の行方をめぐって話は意外な方向へ展開していきます。


A・クルーゾーという人は,サスペンスを盛り上げる映像手法に長けていますね。

例えば,バスタブに沈めた「死体」の恐ろしさ,その存在感を印象づけたあと,バスタブを覆ったシートに水滴がポタリポタリと滴る意味ありげな描写や,「死体」を投げ込んだプールの藻に覆われた不気味な静けさなど,要所でさりげなく観る側の神経をしめつけてきます。

一方で,殺害方法の残酷さや「死体」のゾッとするようなリアルさなど,規制の多かった同時期のハリウッド作品を上回る恐怖感覚を感じます。


犯行後,妻(ヴェラ)が衰弱して,精神が蝕まれていく様子が克明に描かれますが,ヴェラ・クルーゾーという人は小柄でキャシャながら,この映画では凄絶なほど綺麗で,どこか神経を病んだ感じがよく出ていました。

この人は,知られるとおりA・クルーゾー監督の奥さんで,『恐怖の報酬』(1953年)以来,クルーゾー作品に数本出ただけで早くに亡くなったため,あまり見かけない女優さんでもあります。


それにしても,クライマックスのヴェラが追い詰められるシーンは見事でしたね。

モノクロ撮影によるシンプルな陰影のモンタージュと,静寂にミシミシ響く足音,ドアの蝶番がギイッときしる音の強調,スクリーンに目を惹きつけながらが,神経を圧迫する演出の妙。

有名な「死体」が姿を現すシーンは,この時代の映像としてはインパクトが強烈で,のちのゾンビ映画の先がけではないかと思うほど。

この時代のフランス映画って,あまりこういったケレン味は見せないのですが「よくやってくれました!」という感じです。


そのほか,シモーヌ・シニョレはさすがの貫禄で安心して観ていられますね。また夫役のポール・ムーリッスはけっこうな名演で,陰険な暴君の校長役が板についていました。

シャルル・ヴァネルが刑事を退職した探偵役で登場。軽妙な感じで重苦しさを多少とも和らげており,恐怖シーンの直後にドッと笑わせてくれるオチは,さすがフランス映画らしい余裕シャクシャクのつくり。

ヒッチコックの諸作と並ぶサスペンス映画史上の名作。オシャレで取り澄ましたフランス映画は苦手,とおっしゃる向きにもオススメできる逸品であります。


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2006/06/23

フランス古典映画のキッカイな字幕

さて,個人的にもうすぐ転勤で東京を去ることになるため,これが見納めとばかり,フィルムセンターに足しげく通っておりますが,「フランス古典映画」特集からは,これまでレビューを上げた4作品のほかに,あと4本観ていま