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2008年4月

2008/04/30

日本最終上映!カール・ドライヤーをはしご鑑賞

この4月末をもって,カール・T・ドライヤーの諸作の日本における上映権が切れるというので,祝日の4/29を挟むこの3日間だけ,京都みなみ会館と滋賀会館の共催で,ドライヤーの特集上映を組んでくれました。

ありがたいことです(が,ギリギリ過ぎ。もうちょっと余裕があればねぇ・・)


上映作は以下の5本です。

『裁かるるジャンヌ』(1927年/フランス/無声)
『吸血鬼』(1931年/ドイツ・フランス)
『怒りの日』(1943年/デンマーク)
『奇跡』(1954年/ベルギー・デンマーク)
『ゲアトルーズ』(1964年/デンマーク)


数年前(2003年らしい)に,東京でドライヤーの大特集上映が催されたとき,この5本は全て観ていますが,今回,観直しておきたかった『ゲアトルーズ』『怒りの日』の2本を,滋賀会館→京都みなみ会館のはしごで観てきました。


『ゲアトルーズ』は,前回は,確か移転前のユーロスペースで観たのですが,不覚にも睡魔に襲われ,まったくハンパな観方しかできておらず,『怒りの日』も1回観たきりで,当時レビューも書かなかったので・・


他の3本はすでに2回は観ているため,今回は割愛ということにしました。日本最終上映なので惜しかったのですが・・

やはり1日では2本が限界。ドライヤーの映画を日に3本も4本も観るのは,今の私では体力・精神力が持ちません。(T_T


それにしても,京都みなみの方は,かなりの集客でちょっとビックリ。やっぱり関西ではこういう作品の上映機会が少ないですから・・


作品のレビューはまた折りをみて。


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2008/04/27

『夜顔』 ~ピコリの微笑~

2006年/ポルトガル・フランス/70分
監督:マノエル・ド・オリヴェイラ
製作:セルジュ・ラルー
脚本:マノエル・ド・オリヴェイラ
撮影:サビーヌ・ランスラン
出演:
ミシェル・ピコリ(アンリ・ユッソン)
ビュル・オジエ(セヴリーヌ・セルジー)
リカルド・トレパ(バーテンダー)
レオノール・バルダック(娼婦1)
ジュリア・ブイセル(娼婦2)
ローレンス・フォスター(指揮者/特別出演)


マノエル・ド・オリヴェイラの最近作は,かのルイス・ブニュエルの名編『昼顔』にオマージュを捧げ,その登場人物の38年後を描いたという設定。

しかし,『昼顔』が人間の業を白日にさらした構成的なドラマであるのに対して,本作はその続編というシチュエーションを借りながら,まったく傾向の異なる軽妙な一編で,ドラマの終幕を引く「映像詩」とでも言うべきものであります。


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『昼顔』は,カトリーヌ・ドヌーヴ演ずる背徳の人妻セヴリーヌを主人公とした倒錯愛の物語。ミシェル・ピコリ演ずる好事家アンリ・ユッソンは,キーマンではあっても脇役でしかありませんでした。

しかし,本作は全体がユッソン氏の視点から描かれており,しかも中盤までは,ほとんど彼の一人芝居に近く,その視点の違いは,そのままブニュエルとオリヴェイラの作家的な違いと言えるのかもしれません。


ブニュエルは自らのフェティシズム感覚を映画づくりのベースに持っていて,だからその映像は耽溺性と耽美性にあふれ,セヴリーヌのみならず,チンピラ青年の爬虫類的な気味の悪さなど,独特な肌触りに彩られていました。

そこには,人間性の闇を見つめながら,人生を突き放した視線で切り取るといった趣がありました。


それに対して,100歳に近いオリヴェイラにはそういった「生臭い」感覚はなく,あるのは人生の落日を迎えた好き者老人の孤影。

過ぎ去ったものは虚しく,もはやかつての面影を留めてはいない。セヴリーヌに再開し,久々に昂ぶる心・・ しかし,ユッソン氏の前にいるのは,もはやかつての背徳の美女ではなく,市井の片隅にひっそりと生きる老婦人。

ユッソン氏が常に口許に浮かべた微笑が象徴的で,どこか言い知れぬ諦念が漂っています。

遠い過去の「真実」も「裏切り」も,今はもうどうでもよいこと。ロウソクの炎が燃え尽きるように命尽きるとき,人生のあらゆるものは(愛も罪も)等価となる・・ そんな感覚が跡を引きました。


作中,ユッソン氏がバーテンダーを相手に,かつてセブリーヌが犯した罪の正体を語るシーンがあるのですが・・ 笑みを浮かべて,美味そうにウィスキーにノドを鳴らすユッソン氏。悠々とフィックスで撮ったフォルムに,ノドの音像を際立たせる,そんな重厚な描写が心憎いですね。


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本作では,シークエンスとシークエンスの合間に,パリの街並みの昼夜の俯瞰ショットが挿入され,これは小津映画でいうカーテンショットに類するものと考えられます。

しかし,小津が例えば3秒で切るものを,何十秒も延々と見せ続け,しかも,そこだけBGMとしてドヴォルザークの第8番交響曲をこれでもかと聴かせるんですね。

このショット以外は全くの生活音だけで構成されているため,その浮き上がり方が印象的で,ひょっとして,舞台の幕間のような効果を狙ったものかもしれません。


また,ホテルの外に立つジャンヌ・ダルクの像を,これまた微笑を浮かべたピコリの視点を借りて,執拗に映し続けるシーン。

これは物語の進行とは関わりなく,明らかに作品の中で孤立しており,映画を構成する一要素でありながら,シーンが独自性を主張している。

まさかブニュエル作品『小間使いの日記』のジャンヌ(・モロー)をもじったのではないとは思いますが,自在に映像を操り,独特な空気感を前面に出す。そういった作家の拘りが感じられます。


ほかにも,『昼顔』で東洋人(日本人?)が持っていた虫の羽音がするナゾの箱を再登場させ,ラストは唐突に鶏がヒョコヒョコと出てきたり,ブニュエル映画のファンをクツクツと笑わせるようなマニアックな一面があります。


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特徴的なのは,フィックスを基本にした長回し撮影ですね。

冒頭の演奏会で,セヴリーヌを追って劇場を出たユッソン氏が,彼女に逃げられて一人ポツンと劇場の入口付近をウロウロするシーン。

劇場を出た人波はひとしきり過ぎ去り,誰もいなくなって門は閉じられ,灯りも落とされ・・ 映像が寂しくなるのと併行して,言い知れぬ無常観がスクリーンに満ちていく。それをワンショットで魅せる感覚描写。


そして,何といっても圧巻は,ユッソン氏が嫌がるセブリーヌを誘いだしての夜会シーン。

料理の最初の一皿が出されて,それを二人が食べ終わるまで,延々とサイドから固定のワンショットで撮り続け,その間,一言のセリフもないんですね。

給仕のいる個室なので,二人とも立ち入った会話ができず,その緊迫した空気のなか,どちらかが口を開くのを,今か今かと待つサスペンス。


ラストは給仕たちが部屋を片づけるのを,これまた固定・長回しで見せ,料理やワイン,テーブルクロスなど小道具が取り払われ,色褪せたテーブルと椅子,蜀台が残され,最後はロウソクの炎とともに何もかも儚く消え去る。


まさに悠揚迫らず,わずか70分のなかで,大胆にそして細心に映像を紡ぎ,そこに生じる芳醇な味わい,そこはかとない艶やかさ。御歳100を数えるという作家の人生観を凝縮したような逸品であります。


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2008/04/20

『水の娘』 ~ジャン・ルノワール処女作の時代性~

1924年/フランス/70分・無声
脚本:ピエール・レストランゲス
撮影:ジャン・バシュレ,アルフォンス・ジボリ
美術:ジャン・ルノワール
出演:
カトリーヌ・ヘスリング
ピエール・フィリップ
ピエール・シャンパーニュ
モーリス・トゥーゼ


久々にジャン・ルノワールの作品を東京・京橋のフィルムセンターで観ました。例によって,所用で東京へ出かけたついでに行ってきました。

渋谷 Bunkamura ザ・ミュージアムで開催中の「ルノワール+ルノワール展」の関連イベントとして,東京ではBunkamura ル・シネマやフィルムセンターなど3か所でジャンの映画の特集上映が催されていたのです。


展覧会の方は,5月に京都でも巡回展があるようですが,関西ではこのイベントに絡んだ映画の上映予定は今のところ無し。

良い機会ですから,映画史上の巨人「ジャン・ルノワール」に接するチャンスを,関西の映画ファンにも与えていただきたいもの・・ どこかの劇場で企画してくれませんかねぇ。


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『水の娘』はジャン・ルノワールの処女監督作で,当時,彼の妻だったアンドレ=マドレーヌ・ユシュラン(デデ)を女優として売り出すために撮られた作品。

このころの映画の製作費は,彼の父で,かの絵画史上の巨匠オーギュスト・ルノワールの遺産を取り崩してのもだったとか。

デデは父オーギュストの絵のモデルだった人で,女優としてはカトリーヌ・ヘスリング(エスラン)という芸名で,サイレント期のジャンの作品に何本か主演しています。


この処女作では,まだのちのルノワール的な奔放で即興的な感覚描写は目立たず,当時のハリウッドのサイレント作品,例えばD.W.グリフィスがリリアン・ギッシュで撮ったような作品に近い感じですね。

物語も,父を亡くした気の毒な娘が,放蕩な叔父の虐待から逃げ出して放浪したのち,文字通り白馬の王子さまに救われるといったオトギ話のようなもの。


ただ,冒頭の並木道の木漏れ日のなかを艀(はしけ)が川を滑っていく描写とか,艀の上を人が移動するモーションリズムなどに,ルノワール流の詩的なきらめきが感じられます。

艀つながりで,ちょっとジャン・ヴィゴの『アタラント号』(1934年)を思い出してしまいました。『アタラント号』がパリの街中の猥雑な感覚を活かしたのに対して,本作はあくまでも美しい自然描写に彩られた透き通るような映像が特徴ですね。

ほかにも,腹を空かせた娘が,富農の息子がおいて行った食べ物を,高い樹のえだに腰かけて食べるシーンなどに,ルノワールらしい映像感覚が顔を見せます。


そして,見どころは映画の中盤,森の中で冷たい夜雨に打たれ熱にうなされた娘から,魂が抜け出てさまよう幻想シーン。スローモーションや多重露光などトリック撮影を駆使し,シュールな感覚で目を惹きました。

この辺は,当時フランスで流行したアヴァンギャルド映画の影響があったようです。数年後の『のらくら兵』(1928年)からトーキー以後のルノワール作品では見られない貴重なシーンですね。


それにしても,カトリーヌ・ヘスリングのメイクが,いくらサイレント期とはいえ,ベタベタな白塗りに絵を描いたみたいで,彼女だけ他の役者から浮き上がっていて,なぜこんなメイクにしたのだろうという感じ・・


娘が叔父に強姦されそうになるシーンや,彼女が身を寄せたジプシーの馬車を農民たちが焼き討ちにするシーンでは,サイレント的な速いカットバックで,この娘のクロースアップをこれでもかと見せるのですが・・

白塗りに黒々とアイラインを引いた顔に,欧米人特有の瞳が白く光るような感じが奇怪で,どこかドイツ表現主義映画のような印象。時代性を感じてしまいました。


1924年といえば日本では大正の末。未だ映画の黎明期にあって,同時代のさまざまな要素を盛り込んだ,巨匠ジャン・ルノワールの処女監督フィルム。貴重なものを観ることができて,まずは良い週末でありました。


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2008/04/18

『昼顔』&『夜顔』 ~連続鑑賞の快感~

京都みなみ会館では,今月初めから「マノエル・ド・オリヴェイラの世界」という特集上映が行われていました。

その中で,オリヴェイラの最近作『夜顔』(2006年)と共に,ルイス・ブニュエルの名作『昼顔』(1967年)が上映されたので,2日通って(当然ですが)『昼顔』→『夜顔』の順で観てきました。


なかなか粋な計らいといいましょうか,『昼顔』を観て(覚えて)いなければ,『夜顔』だけ観ても,ほとんど意味がないですから・・

何せ『夜顔』は,ブニュエルの『昼顔』の登場人物のおよそ40年のちを描いたという設定。


ところが,なかなかこの2本を一緒に上映してくれる館がなく,私自身は『昼顔』を観たのはもう20年以上も前で,ほとんど内容を忘れていたため,あえて『夜顔』も観ていなかったのでした。

で,今回,京都みなみの特集のお陰で,ようやくオリヴェイラの最近作を観ることができたというわけです。


ポルトガルの巨匠 マノエル・ド・オリヴェイラは,今年なんと100歳になるのだそうで,実はブニュエルと十も違わず,日本でいえば黒澤明より年長・・ 撮り始めはサイレントといいますから,恐れ入ります。

でありながら,この人,クラシックシネマの巨匠ではないところが素晴らしい。


老境に入るまでほとんど無名で,80年代になってようやく認知され始め,日本で紹介されただしたのは90年代以降(旧作専門の私は,実はあまり観ていない作家でもあります)。

そして,齢八十を過ぎてから年に1作のハイペースで新作を発表し,その映像感覚をもって高く評価されているという,今が旬のバリバリ現役監督なのです。決して,過去に生きている映画作家ではない・・こんな人は空前絶後ではないかと思います。


『夜顔』は『昼顔』の続編という設定ではありますが,作品自体はまったく傾向が違って,それぞれに強烈に異彩を放っており,どちらも良いです。

まあ,普通にドラマとして楽しみやすいのは『昼顔』のほうだと思いますが・・


レビューはまた近日中に。


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2008/04/11

チャールトン・ヘストンとその時代

先日,往年のハリウッドスター,チャールトン・ヘストンが亡くなったというニュースが,世界を駆け巡りました。


1950年代,ハリウッドが最後の光芒を放った時代の大スターで,アメリカン・ニューシネマ以降の俳優たちとは一線を画する,旧いタイプの映画スターの一人でした。

同世代の,マーロン・ブランドやポール・ニューマン,少し下のスティーブ・マックイーンやクリント・イーストウッドといった俳優たちが,いかにも戦後派的な屈折した持ち味で売ったのに対し,この人はどこか別格で,ケレンのない真っすぐなヒーロー像がよく似合いました。


筋骨隆々でスケール感のある巨躯を活かし,セシル・B・デミルやウィリアム・ワイラーといった旧世代の巨匠による史劇の主演が多く,ハリウッド黄金期を彷彿とさせる大スペクタクル巨編の主人公のイメージが強いですね。


ポール・ニューマンあたりが,リアリスティックなニューシネマ作品に馴染んだのとは対照的に,ヘストンは小ぢんまりとした現代劇では扱いにくく,それだけに一時は,出番が少なくなったようです。

それが,70年代半ばになって大作の「パニック映画」が流行りだすと,またぞろ復活して大活躍。


私自身,いったい何本ヘストンの出演作を観ているかわかりませんが,忘れている作品も山ほどあって,数えきれないですね。

『十戒』や『ベン・ハー』はもちろん,『地上最大のショー』や珍作『インカ帝国の秘密』,そして後年の『猿の惑星』から『エアポート'75』,『パニック・イン・スタジアム』等など・・


ヘストンが演じ続けたのは,実は同時代的にみても,時代遅れな旧タイプのヒーローだったのかも知れません。

それはアメリカの古き良き時代の体現者であり,徹底的にタフで実直な,いつの時代もアメリカ人が熱望するヒーロー像・・ 残念ながら,今のハリウッドには,もう見当たりません。


映画が生みだした「影」がまた一つ消えました。


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2008/04/09

『悲しみが乾くまで』 ~ヨーロッパテイスト・・でもやっぱりアメリカン~

2008年/アメリカ/119分
監督:スサンネ・ビア
脚本:アラン・ローブ
撮影:トム・スターン
出演:
ハル・ベリー(オードリー・バーク)
ベニチオ・デル・トロ(ジェリー・サンボーン)
デヴィッド・ドゥカヴニー(ブライアン・バーク)
アリソン・ローマン(ケリー)
オマー・ベンソン・ミラー(ニール)


日曜に梅田ガーデンシネマで観たのは,私としては珍しいアメリカ映画の最新作・・ と言っても,監督のスザンネ・ビアは,デンマークの女性映画監督で,これがハリウッド進出第1作なんですね。


欧米では90年代から高く評価されていたようですが,日本では一部のマニアックなファンしか知らないような映画作家だったと思います。

それが,何故か昨秋あたりから『アフターウェディング』,『ある愛の風景』と本国デンマークで撮られた作品が連続で封切られ,単館系ヨーロッパ映画ファンの間で静かにブレイク・・ やはりハリウッド進出という「印籠」が効いているのでしょうか。


で,私はデンマークで撮られた作品はぜんぜん観ていなくて,いきなり,このハリウッド製作品を観てしまったというわけです。


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理不尽なトラブルで夫の命を奪われた女性が,麻薬に溺れてすさんだ暮らしをしている夫の友人と再開し,ひととき心を交わす。現代人の心のヒダに巣くう茫漠とした孤独感と喪失感,それを救ってくれるのは・・


これ1本しか観ていなくて,簡単にこの作家の特質を云々はできませんが,特筆すべきは,ハリウッド映画としては珍しく,作家性を殺していないこと。


全体にストーリーテリング中心の経済的な編集を封印し,個人的な映像感覚を重視しようとする姿勢がうかがえます。

脈絡のあいまいなショットの連鎖,登場人物の目や手の緩やかな動きの極端なクロースアップ,陰影の濃い画調による心理描写,そして深みのある哀調のメロディ・・

振幅の小さい日常描写の積み重ねのうちに,突然の破綻をぶつけて,物語を軋ませる。


確かにこれはヨーロッパ映画の手法に相違ありません。企業的な分業至上主義のハリウッドが,珍しく作家の特性を最大限に尊重しようとしている。

こんなこともあるのだ・・と妙に感心してしまいました。


しかし,この作品のホントに恐ろしいところは,ヨーロッパ映画的な構造の中で,演じる役者が完全にアメリカンなこと。ハリウッド流の「演技の上手いのがイチバン」的な無邪気な価値観はやっぱり健在なのです。


まず,存在そのものがアクの塊りみたいなベルチオ・デル・トロ。そのキツ~イ体臭漂う「如何にも」といった表情と動作。


ハル・ベリーという女優を私はよくは知らないのですが,演技的にはある意味,よく仕上がっていて,ヒステリックになったり大泣きしたりといったアメリカ的なステロタイプな演技は,達者といえば達者(まず日本人の涙は誘わないけど・・)。

「役に入り込んでしっかり仕上げました」といった感じで,ホントにプロフェッショナルに計算してよく作り込まれていますね。


そして,特筆すべきは二人の子役で,何でアメリカ映画にはこれができるんだろう?という信じ難いぐらい破綻のない完璧な仕上がり。


ヨーロッパ作品によくあるように,余計なものを削ぎ落として,役者のナチュラルな一瞬を切り取り,即興的なきらめきを捉える,といった「感性」の発露はそこには見られません。

何が良いとか悪いとかではなくて,これはやっぱり「アメリカ映画」なのです。


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2008/04/04

あっ晴れ!ナナゲイ

映画『靖国 YASUKUNI』の上映中止が相次いだ問題で,大阪・十三の第七藝術劇場が予定通りの上映を表明しました。

日本映画史上の「恥」とも言うべき本件において,イヤな流れにいち早く歯止めをかけてくれたのが,自分が日ごろから慣れ親しんでいる劇場だったというのは,何だか,うれしい気分ですね。


文化庁所管 独立行政法人とやらの助成を受け,映画の製作費としてはナケナシともいえるわずかな補助金をもらったがために,痛くもない腹を探られ,踏んだり蹴ったりで,関係者はたまったものではなかったことでしょう。


もちろん,私は作品の内容はまだ知りませんし,思想信条の問題をとやかく言うつもりもありません。しかし,理不尽な圧力に屈して作品を闇に葬り去ったとあっては「映画」の名折れ,それだけは許せません。

まあ,これで流れも変わるし,正常化に向かってくれるのではないかと期待しています。


で,最初にイチャモンをつけ,時代錯誤とも思える国会議員への「試写」を要求したのは,靖国訴訟で国側の弁護人をつとめた保守党のタカ派女性代議士。

私たちは,映画をタダ観させるために国会議員を選んでいるのではありません。内容を確認したければ,公開されてから劇場へ足を運ぶのが筋というもの・・


各劇場が一斉に上映中止を決めたことで,例によって「表現の自由」の侵害だとか,「検閲」だとか,突き上げられて真っ青になっていたに違いないくだんの女史が,じつは,いちばんホッとしているかもしれないですね。


ともあれ,ナナゲイの勇断に,心より敬意を表したいと思います。


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2008/04/02

さようなら「映画館」・・またいつの日か

この3月末をもって,千日前の3館「千日前国際劇場」「千日前国際シネマ」「千日前国際地下劇場」が休館となりました。

とうとう大阪ミナミから「映画館」が無くなってしまいました。


言い古されたことですが,ミナミは日本の「映画興行発祥の地」であります。かつては巨大スクリーンの南街会館をはじめとして,大型映画館が軒を連ね,活況を呈していました。

それが,今はどこへ行っても,ただ「跡地」を残すのみ・・


日曜に「千日前国際シネマ」へ見納めに行ってきました。上映作はなぜか新東宝の珍作『明治天皇と日露大戦争』(1957年)・・ この館はもともとは新東宝の上映館だったらしいですね。


「国際シネマ」の座席数は676席,隣の「国際劇場」はさらに大きくて809席の大劇場。

このサイズで,近隣に進出したシネコンにロードショー館の地位を奪われ,二番館以下の扱いを受けたのでは,もはや経営的に立ち行かなくなって当然なのでしょう。今の時代にはそぐわない,「映画の世紀」の遺物だったのかもしれません。


それにしても・・「映画館」を見殺しにして,映画に未来はあるのでしょうか?


シネコンは,たまに映画を観に行く人にとっては,確かに快適な空間に違いないのでしょう。しかし,映画の想い出は「映画館」と共にあるというのが,私など旧タイプの映画ファンの長年の実感であります。映写ホールと「映画館」は違うのです。


映画興行が,スマートなシネコンとシックなミニシアターに集約されていく中で,またいつか個性的な「映画館」が息を吹き返す日が巡ってきてほしい。

今はそんなことを考えながら,子どもの頃,夏休みや冬休みのたびに通った,街の「映画館」の空気を懐かしく思い起こすのでした。


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