1935年 日本/P.C.L映画製作所
演出・脚本:成瀬巳喜男
撮影:鈴木博
音楽監督:伊藤昇
出演:
千葉早智子(山本君子)
丸山定夫(山本俊作)
英百合子(お雪)
伊藤智子(山本悦子)
藤原釜足(悦子の兄)
大川平八郎(君子の恋人)
フィルムセンターの成瀬巳喜男特集第4弾であります。
トーキーが撮りたくてP.C.L(東宝の前身)に移籍した成瀬監督の,移籍後3作目らしいですが,この前年まで松竹でサイレントを撮っていたわけですから,時代の変わり目の過渡期的な作品だったのでしょうね。
軽いタッチの脚色やモダニズムを強調する画づくりは,まだ松竹蒲田的な小市民モノの延長上にあり,子役を使ったギャグの表現などにもその名残を感じさせます。
時代は昭和初期,主人公は都心に勤める若いOL。彼女の父は愛妾のもとに走り何年も帰らない。
他の「女性映画」とはやや趣を異にし,主人公の娘はむしろ狂言回しに近く,一人の男をめぐる2タイプの妻(本妻と妾)の,それぞれの綱引きの顛末がストーリーの芯になっています。
当時の背景として,まだ戦争前で大正デモクラシーから続く民主的啓蒙の時代,都会においては進歩的な考え方の女性が増えていたのでしょうね。それに馴染めない旧世代の男は大いに弱り,「かしずく妻」への郷愁抑えがたく,妻も子も捨て妾のもとへ・・・。
いつの世も図式化されてきた男女のすれ違いの機微ですが,この時代にはこの時代なりのシチュエーションがあったわけですね。
誰も悪者にしない独特の話法に則りながら,心理の葛藤や感情の揺らぎをさりげなく控えめに,しかし的確に表現しながら映像リズムを紡ぎだす手腕には,既に成瀬監督らしい安定感が漂っていました。
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さて,本作を見た限りでは,手法的にまだサイレントの名残がかなり色濃く感じられますが,同時に,のちの成瀬作品には見られないような,技法的な試みに腐心している様もうかがえました。
冒頭の主人公が勤めるオフィス街の夕刻シーン。窓のブラインドを下ろすのを皮切りにキャメラは屋外に出て,極端なローアングルから見上げるようにビル群を映し出します。
そこを顔のないサラリーマンの群像が,まるでロボットみたいに靴音を立てて家路につく。どこかシュールレアリスティックで無機的な都会のイメージ。
このいきなり成瀬らしからぬアヴァンギャルドな表現にギョッとなりますが,シーン変わって主人公の女性が登場し,スッと現実世界に引き戻されます。
全体としては,やけにショットの分割が細かく,俳優が一つのセリフを喋る途中にも忙しく画面が切り替わります。
会話の途中で,いきなりキャメラが室外に出て,脈絡のつかめない家の一部みたいな画を挿入し,次いで窓から家のなかを覗く客観ショットにつなぐ・・・,こういうのは,サイレント時代のモンタージュのリズム感を思わせます。
しかしながら,サイレントと違ってトーキーでは,こういうつながりの唐突なショットの束でも,一つのセリフで串刺しにすることによって,シーンの意味的なまとまりを欠くことがないんですね。
ほかにも,例えば室内の場面から,急にキャメラを塀の上を歩く猫の視線に移して,外から家の中をのぞくようなショットに切り替えたりしますが,音声によってふつうに物語が流れていれば,特に違和感はないわけです。
こういうのは,前衛作家でも何でもない成瀬監督にとっては,実はトーキーならではの試みでもあったのかもしれませんね。
そのほか,シークエンスの変わり目で,前のシーンの音声を次のシーンの頭に(不自然なほど)長くかぶせたり,極端なローアングルやハイアングルを多用したり,人物へのトラックアップ(寄り)とトラックバック(引き)を交互に繰り返してみたり・・・。
この辺になると多少ともうるさくなって,効果のほどには疑問符がつきますが。
ともかく,後年は洗練されてムダのない表現で知られた成瀬監督も,トーキー初期には前衛的な表現技法やキャメラワークに凝ったり,実験的な試みを繰り返していたことがうかがわれ,興味深いものがありました。
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一方で,この作品には構成上の工夫もあって,娘の説得で父親が久しぶりに家に帰り,母親と感動の再会(?)を果たす(はずだった)のですが,凡庸な作家ならば,きっと見せ場にしているであろうこの種のシーンを,あっさり省略してしまっているんですね。
この省略のために,父と娘が東京へ帰る列車内のシーンからあとは,唐突に娘の回想シークエンスに組み込まれ,一足飛びに親娘三人の外出シーンへと移ります。
かなり大胆な処理ですが,これ見よがしな演出を嫌った成瀬監督らしいクールでイキな構成だと思いました。
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