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ともかく映画館に行くのが好きで,特にレアなクラシックシネマが劇場にかかると飛んでいきます。
想いは,映画における大衆性と日常性の回帰。
それは映画館の復権・・
旧い新しいにこだわらないで,ともかく,いい作品をたくさん掛けてほしい。
ふらりと立ち寄れる街の劇場を大切にしましょう。

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2008/07/19

『リリー・マルレーン』 ~攻撃的につくり込んだ映画~

1981年/西ドイツ/120分
監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
原作:ララ・アンデルセン
脚本:マンフレッド・プルツァー,ジョシュア・シンクレア
撮影:ザヴィエ・ショワルツェンベルガー
出演:
ハンナ・シグラ
ジャンカルロ・ジャンニーニ
メル・ファーラー
クリスティーネ・カウフマン


シネ・ヌーヴォの「ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー映画祭」で観た1本で,彼の映画としては比較的よく知られている作品だと思います。


ナチス独裁下のドイツで,戦意高揚の手先に利用され「リリーマルレーン」を歌った歌手ビリー(ハンナ・シグラ)と,ユダヤ人解放組織のリーダーを父に持つロバート(ジャンカルロ・ジャンニーニ)の結ばれえぬ悲恋のストーリー・・

なんて書くと,哀しい反戦映画のようですが,国家の「戦争」を正面から批判するといった類ではありません。

表面上は,時代に翻弄される男女のメロドラマの体裁をとりながら,終始,あの「戦争」のバカバカしさを,裏からシニカルに描き出すといった趣向。

敵味方入り乱れたスパイ合戦や,ナチスとユダヤ組織の裏取り引きなど,ドイツ近代史の暗部をえぐり出しながら・・

ナチスものとしては,ユダヤ人の描き方が独特で,「被害者」としての民衆はどこにもおらず,スイスに住むユダヤ組織のリーダーは大変な金持ちで,腹黒い策略家のイメージ。

「私はただ歌っているだけ」というシグラ演ずるビリーだけが,人として素直で純真な存在という感じがします。

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ともかく,映像と音響の洪水によって攻撃を仕掛けてくるタイプの作品で,ハンナ・シグラが歌う,気だるく甘ったるい「リリーマルレーン」を全編に流しながら,あえてアザトくつくり込んだ印象があります。 

まずもって映像処理が攻撃的で,短いショットを目まぐるしく切り替え,非常にテンポが速く,シーンごとの余韻など切り捨てるかのように,どんどんせっかちに先へ先へと進んでいきます。

こういう作品を,理屈っぽい字幕を読みながら観るのは,かなりツラくて,途中から字幕を斜め読みにしたので,話の展開がやや怪しくなってしまいました。


序盤から中盤まではズームアップ(あるいはトラックアップ)を多用しながら,そこに心情的BGMを絡ませるのですが・・

音響処理に相当拘っており,目まぐるしい心情の変転を象徴するかのように,焦りや不安をかき立てる音楽と,心の和みを表す音楽をコロコロと切り替え,その変化の激しさは,どこか戯画的ですらあります。

そのほか,男女のロマンス場面は,回想シーンでもないのにフィルターをかけたシーンが多く,また,謎や秘密を匂わせる場面では,ガラス越しに眺める客観ショットを多用したり,ベッドシーンでは,極端なクロースアップで汗まみれの肌とそれを撫でる手ばかりを追ったり・・

特に,シグラがリリーマルレーンを歌う場面は,豪華な舞台で歌うシグラと,戦場での爆撃で死んでいく兵士たちを,速いモンタージュでつないで見せる・・ 


全体に,ちょっと過剰につくり過ぎて浮ついた感じはありますが,そんななか,ハンナ・シグラの表情と演技が不自然なほど抑えたクールな演出で,奇妙な和音を奏でています。

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それにしても,ハンナ・シグラって,大して美人でもない(失礼!)のに,こんなに魅力的に見える作品は初めてでした。

同時期のゴダールの『パッション』(1982年)では,もっと老けたオバサンの感じが強いし,ヴェンダースの『まわり道』(1975年)では,生硬な印象で,ぜんぜん良さが出ていない。

それに比べると,この作品のシグラはずっと良くて,観終わったあとに余韻を引きずるほど。

もともとファスビンダーが女優にしてしまったような人らしく,その魅力を隅から隅までよく理解していたのでしょうね。


他のキャストもけっこう渋くて,ロバート役のジャンカルロ・ジャンニーニはともかく,その父親のユダヤの富豪役,どこかで見たことがあるな,と思っていたら・・

エンドロールに「メル・ファーラー」とクレジットされ,アアッそうか!と思いました。

たしか,ついこの間,亡くなったところのはずですね。かつてはニヒルな敵役の多い人で,オードリー・ヘプバーンの元夫でもありますが,1980年だとさすがに歳とったな~という印象。

その他,地下組織の工作員としてウド・キアが出てました。70年代にはユーロトラッシュ系の怪奇俳優のイメージが強かった人で,このへんもマニアックな配役ですね。


おっと長くなり過ぎましたね。
こういう作品は書きたいことが多くてついつい・・(^^;
取りあえず今日はこのへんで。


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2008/07/05

夏の特集上映 ~ファスビンダー&ダブル市川~

さて,いつの間にか7月になってしまいました。いよいよ夏ですね~。

日本一暑い大阪の夏・・しばらく東京地方に住んでいた身にはかなり堪えます。

あの連日の灼熱地獄と熱帯夜を思うと,ホント今から思いやられますが,暑気払い(どこがや?)に,今夏,関西地区で予定されている旧作の企画上映について,サラッと眺めてみましょう。


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まずは,来週からシネ・ヌーヴォで始まる「ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー映画祭2008」

私はあまり知らない60~70年代作家ですが,その時代,ニュー・ジャーマン・シネマのホープと呼ばれていたファスビンダー。

早世(37歳没)だったわりに,40本以上撮っているというのは意外ですね。『マリア・ブラウンの結婚』や『リリー・マルレーン』などは有名ですが,そんなに知られていない映画作家ではないかと思います。

今回の特集では,17本+α(後年のドキュメンタリー)のセレクト。上映期間は7月12日(土)~18日(金)の一週間のみ。→公式サイト

もうちょっとスケジュール工夫してもらえませんかねぇ。ウィークデーの昼間なんて,ふつう観に行けないですから・・

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同じくシネ・ヌーヴォでは,いよいよ来たか!という感じで,8月2日(土)から「追悼特集 映画監督・市川崑」が始まります。

こちらは8週間に渡り60作品を上映という大特集。日本映画最盛期からの巨匠で,今年亡くなるまで現役監督だったですから,扱いも格別ですね。

一貫して商業娯楽映画を撮り続けながら,ゲージュツ家然とした作家たちが足元にも及ばない足跡を残してきた,日本映画史上屈指の才人であります。

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「市川ツナガリ」というわけではありませんが・・ 京都みなみ会館では,7月15日(火)から,恒例の「市川雷蔵映画祭2008」が始まります。

毎年,雷蔵忌の7月17日のころに開催されるこの映画祭ですが,今回は,昨年末に亡くなった田中徳三監督の追悼を兼ねて,7月31日までの延長版になるようです。

田中徳三監督・雷蔵主演の10本と,田中助監督作2本,その他3本の計15本を上映。

雷蔵主演モノですから,もちろん大半は肩の凝らない娯楽時代劇ですが,なかに,市川崑の『炎上』,溝口健二の『新・平家物語』などもラインナップされています。

ここのプログラムは,平日から始めて,週末を2回挟むというのが良心的で,好感がもてますね。

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さて,ホントに歳とともに夏を乗り越えるのがツラクなって来ていますが,たまには涼しいところで映画でも観ながら,今年もめげずに頑張りたいと思います。

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2008/06/28

『美しき諍い女』 ~長さをそのまま受け入れる映画~

1991年/フランス/237分
監督:ジャック・リヴェット
原作:オノレ・ド・バルザック
脚本:ジャック・リヴェット,パスカル・ボニツェール,クリスティ・ローレン
撮影:ウィリアム・ルプシャンスキー
出演:
ミシェル・ピッコリ(フレンホーフェル)
ジェーン・バーキン(リズ)
エマニュエル・ベアール(マリアンヌ)
マリアンヌ・ドニクール(ジュリエンヌ)
ダヴィッド・バースタイン(ニコラ)
ジル・アルボナ(ポルビュス)


シネ・ヌーヴォで開催されたジャック・リヴェット特集で,ようやく観ることができた“呪われた巨匠”の名編。4時間に渡る長尺作品であります。


この前に,同じ特集上映で観た『嵐が丘』(1985年)が,ハッキリ言ってピンとこない作品で,この調子で4時間やられたら,たまらないな・・ と正直,観ようかどうしようか迷っていました。

しかし,本作に限っては,これは観てよかったと思える一作でした。途中休憩まで入る長尺ながら,その長さがそのまま心地よい,こんな作品はなかなかありません。

もちろん同じような長い作品は,ほかにもありますが,本作が素晴らしいのは,決して大作ではなく,むしろスケールとしては小品の域を出ないこと。

金をふんだんに注ぎ込んだ大スペクタクル巨編が,派手な展開や刺激の強い映像で,時間を忘れさせ間を持たせられるのは,ある意味当たり前。

しかしこの作品は,くたびれた画壇の巨匠とその妻,若いモデルとその周辺人物の夏のひとときの物語。映画の大半は画家の創作過程で占められ,ベアールの見事な裸体はあっても,ほとんどケレンがない。

でありながら,長さを忘れさせるのではなく,その長さのままで「映画的興奮」を持続させる・・とでもいいましょうか。この辺はさすがですね。


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「美しき諍い女」とは17世紀の高級娼婦をモチーフとした絵画。かつて老画家(ピコリ)は,妻(バーキン)をモデルに描きかけながら,ある事情から完成させることができず・・

10年後,友人の画商が,若い画家のわがままな恋人(エマニュエル・ベアール)をモデルに推薦し,老画家は再び「諍い女」に取り組みはじめます。


ともかく,映画の中盤から延々と続くアトリエでの制作シーンが見事。

真白いスケッチブックに墨が落とされ,ペンで引く細い線と,時おり水筆で入れるボカシがしだいにフォルムを形成していくその過程を,延々とワンショットで撮っていて,こんなシーンが目を惹きつけてサスペンシヴであるという経験はなかなかできません。

久々に絵筆をとった画家は,最初のうちなかなか調子が出ないのですが,ザラついた紙の表面をペンがカリカリと掻きむしる音像のいら立ち,ベッタリとした水筆の筆致の不快感・・ それらが,画家とモデルの間に生ずる葛藤と重なって,そこに緊迫感が生まれるといった印象。


画家は初め,モデルに正対して身体や顔をスケッチします。このとき彼が描くベアールの顔は,人間とは思えない無機質な気味の悪い顔。

そのうち,モデルに身体は前を向かせながら,「顔を見せるな!」といって,ソッポを向かせるようになります。

ベアールに関節を無視したような無理なポーズをとらせ,何枚も習作を繰り返しながら「君を解体して,すべてをさらけ出させる!」という画家は,その実,モデルに正対することを躊躇している。本当は妻で描きたかったのだ・・という彼の本心が垣間見えます。


妻のバーキンはベアールに「顔を描きたいと言い出したら,断るのよ」と忠告しますが,結局,その忠告は聞き入れられませんでした。

最初のうち,恋人への当てつけのため,仕方なく画家につき合っていた様子のベアールですが,だんだん本気になり,画家の前で自らを解放していきます。

画家はベアールに「君にも闘ってほしい」といいながら,女のすべてがさらけ出されたとき,自らは逡巡し,背を向けてうずくまるようなポーズの絵ばかり描きます。

ベアールはそんな画家の本心を見抜き,逃げないで,私をしっかり見て描いて,と迫ります。そして,とうとう画家は「美しき諍い女」を完成させますが・・


10年前,画家とその妻が「美しき諍い女」を断念せざるを得なかった事情がしだいに明らかになり,それが,なぜベアールなら描けたのかも,観終わってシミジミとわかります。

芸術を極めること,人間の内奥をつきつめること・・ それが果たして男女・夫婦の幸福と両立し得るのか? 描きたい,しかし真実をカンバスに定着する行為は,あまりにも残酷過ぎる・・

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映像的には,特に序盤の,南フランスの夏の描写が絶品。その明るい外光の取り入れ方,セミの声を重ねて醸しだす空気感が心地よく,観始めてすぐに「これは良い映画だ」と感じました。

その明るい屋外との対照で,中盤から埃くさいアトリエで展開される画家とモデルの閉塞的な葛藤世界が,重くなり過ぎない程度に際立った印象。

役者では,何よりエマニュエル・ベアールが素晴らしくて,女の嫌らしさを垣間見せながら,常に人を惹きつける色香を醸し,画面をかっさらう力がありました。一方のミシェル・ピコリは,アトリエで「仕事」に臨むときの,真摯で透徹した芸術家の眼差しに凄みを感じました。


1991年,カンヌ国際映画祭 審査員特別グランプリ受賞。その名に恥じない名匠ジャック・リヴェット快心の逸品といってよいでしょう


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2008/06/21

『靖国 YASUKUNI』 ~いまなぜ「靖国」なのか?~

2007年/日本・中国/123分
監督:李纓(リ・イン)
製作総指揮:張雲暉,張会軍,胡雲
製作:張会軍,胡雲,蒋選斌,李纓
撮影:李纓,堀田泰寛
編集:李纓,大重裕二


さて,第七藝術劇場でレイトショーになってようやく観た問題作。これが,いち映像作品としての評価を超え,世の中を騒がせた顛末について,今さらクドクド書く必要はないでしょう。

ほとんど誰も観ていないうちから,これほどまでに物議を醸した作品も珍しいですが,周囲が必要以上に騒ぎ出すのも「靖国」という題材の特殊性によるもの・・

おかげで,通常なら単館系で,さして注目されるでもなく粛々と上映を終えていたはずの作品が,予想外のヒット作になってしまったのは皮肉ですね。

全国でまっ先に公開を表明した第七藝術劇場は初日から満員札止。上映期間も延長に次ぐ延長で,公開から1か月半たった今も続映中という異常事態(?)。

その後,日本じゅうで続々と上映館が増え,いまや全国ロードショー状態ですから・・

一時は公開自体が危ぶまれたとは思えないほどで,製作者や配給サイドは怒ったり,焦ったり,喜んだり,さぞ忙しかったことでありましょう。

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これは来日20年近い中国人監督が,10年の歳月を費やして取材を重ね,ようやく日の目を見たドキュメンタリーであります。

「映画」としての品質・技術を云々するなら,評価の難しい作品で,一見,そんなに上手く処理されているように思えない。作家自身の日本語力の問題もあり,取材自体がスムーズにいっていない印象もあります。

ただ,荒削りで行き当たりバッタリな撮影と,あえて編集を施さず,長い長いワンショットをそのまま見せる手法は,映像自体の良し悪しは別にして,リアルな真実を伝える空気感を持っています。


映画は,8月15日の終戦記念日に「靖国」に集う人たちの様態を,ただ黙々と撮り続けたシーンと,御年90歳という靖国の御神体・靖国刀づくりの刀匠の取材シーンを併行して見せます。

夏の日,「靖国」に集うのは,肉親を追悼する戦没者遺族,戦争肯定の愛国者,自虐史観を批判する者,そして,靖国に祀られることを拒絶する遺族や反靖国の運動家たち・・ それぞれの思いとその主張。

それをひたすら撮りっ放し状態で,時おり乾いた字幕が入る以外は,説明的表現を排して,野放図にスクリーンに投げつけたといった趣き。

ともかく,延々と長回しで撮ったシーンをそのまま見せることに終始しており,そのキレの悪さに,最初,首をひねりますが,観ているうちに作家の意図が明瞭になってきます。

これは明らかに,フィルムを切ってつなぐことで,作り手の思想に都合の良いシーンだけを見せたような印象を生むことを防いでいる。

この中国人作家は,映画の終盤で,南京大虐殺の(とされる)写真と軍国日本のイメージフィルムをモンタージュでつないでみせるのですが,ここにこの作家の「根」が現れており,そんな自分が編集すると,作品の意図を損なってしまうことも自覚していたのではないかと思います。

全部をそのまま投げ出して見せ,鑑賞者の判断にゆだねたのは,ある意味,作家の卓見であり,自戒でもあったのでしょう。

私自身,今,右左の対立軸とは距離をおいていますが,しかし,本作を観ながら,完全なニュートラルポジションに身を置くことの難しさを思い知らされました。やはり気分が昂揚すると,人間どちらかに肩入れしてしまうもの・・


そして,本作の登場者のうち,もっとも真っ当なのは,数々の戦没者ご遺族の方々。

「靖国で会おう」を合言葉に,戦場に散った父や兄弟や夫を悼むご遺族,かたや国家の侵略戦争に加担させられたことを悔やみ,「靖国」への祭祀を拒絶するご遺族・・

一見対立するかのようなそれぞれの思いは,じつはどちらも「真実」であります。人間の素直な「気持ち」に正解も誤りもないのです。

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「靖国」は宗教的信仰の対象では決してありません。

明治2年創設,140年ほどの歴史しか持たないこの社は,近代国家の富国強兵政策のもとに建てられ,そのもともとの本質は,国家主義的な官僚機構の一部といってよいと思います。

祀られているのは,民俗的信仰にもとづく「神道」本来の神々ではなく,戊辰戦争から大東亜戦争にいたる国家の戦争によって命を落としたおよそ250万柱という「英霊」。

つまり,今ここは,日本の「戦没者墓地」の代替施設でもあるということです。

戦後,いち宗教法人となったはずの「靖国」ですが,遺族の祭祀拒否の申し立てを頑として受け入れません。それを受け入れたとき,戦前の官僚機構の最後の生き残りである「靖国」の存立意義は危うくなる・・


映画の後半,靖国参拝20万人集会なる催しが映され,石原慎太郎や例の保守党議員が壇上にたって,何やら演説するシーンが映されます。

演説が終わり,キャメラが客席へパンすると,その集会は,いまや相当にお年を召された方々ばかり・・

ここで明らかなことは,これから10年~15年ぐらいの間に,日本は,右も左もなく,確実に「戦争を知らない国」になっていくということ。(二度と戦争が起こらないと仮定しての話ですが・・)

そう考えると,「戦没者墓地」であり,純粋な宗教社ではない「靖国」の将来像については想像に難くありません。

つまり,「靖国問題」に切り込む映画を製作・公開するのは,もう今のタイミングしかなかったとも言えるわけです。


上映中止騒動などで,多少ともキワモノ扱いされた感がありますが,おかげで,これが今,多くの日本人の目に触れたことには,それなりの意義があったのだと思います。


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2008/06/16

3週間ぶりの映画鑑賞 ~やっと!~

ここしばらく公私とも多忙で,休日も時間が取れず,映画館にも足を運べていませんでしたが,この土日は,ほぼ3週間ぶりに映画を2本観ました。

まずは,シネ・ヌーヴォのジャック・リヴェット特集が本格化したので,取りあえず『嵐が丘』(1985年)だけ観てきました。

本当は『美しき諍い女』にしかったのですが,とにかく4時間も映画館にいるような時間が取れないため,来週以降に持ち越し。まあ,来週は来週の風が吹きますが・・


そして,もう1本は,“やっと!”という感じで,第七藝術劇場へ『靖国 YASUKUNI』を観に行きました。

ナナゲイでは,すでに1か月を超えるロングラン上映中ですが,例の騒動のあおりで,公開後から小さな劇場は連日超満員だったらしく,人が多すぎる中での鑑賞が苦手な私は,少し落ち着くのを待っていたのでした。

ようやく,この週末からレイトショー上映(20時35分~22時40分)になったのと,先週から京都シネマでも上映が始まって客が分散しているはず・・と踏んで行ってみたところ,ゆっくり観ることができました。

それでも,日曜のこの種のレイトショーとしては,異例なぐらいの客の入りでしたが・・

しばらくぶりで劇場に行くことができて,ちょっと一段落・・感想はまた近いうちに。


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2008/06/14

いやぁ~映画ってホントにいいもんですね!

先日,水野晴郎さんが亡くなりましたね。享年76歳とか。

「映画評論家」という肩書きですが,この人,もともと配給会社の宣伝マンで,テレビの水曜ロードショー(のち金曜ロードショー)の解説者として,長年お茶の間に親しまれたこともあり・・

不可解な奇説を並べ立てる論者ではないし,「評論家」というより「映画解説者」といったほうがピッタリときます。その映画の伝道師としての功績は,絶大であったと思います。


私が子どもの頃は,テレビの洋画劇場の全盛時代で,昭和40年代初頭に始まった洋画放送番組が徐々に増え,昭和45年前後・・つまり70年代に入るころから,にわかに活況を呈しだしました。

水野さんの水曜ロードショーも70年代初めに始まり,当初はけっこう渋い作品をやっていて,『顔のない眼』なんてのも,たしか水野さんの解説でふるえながら観て,トラウマになった覚えがあります。


そして,あの『風と共に去りぬ』を世界で始めてテレビ放映したのも,じつはこの水曜ロードショー。

このときは2週に渡っての特大放映でしたが,ともかく,「あの『風と共に去りぬ』がついにお茶の間で・・」的な盛り上げ方がスゴクて,番組の冒頭ではスカーレット・オハラ役のオーディションフィルムを延々と流したり,水野さんも興奮を抑えきれない様子でした。

そういえば,この人,最初の頃,なぜかポンチョにメキシコ帽というイデタチで出ていたような・・。私の思い違いかもしれませんが。


この頃の1週間のプログラムといえば・・

日曜夜9時 日曜洋画劇場/解説:淀川長治

月曜夜9時 月曜ロードショー/解説:荻昌弘

水曜夜9時 水曜ロードショー/解説:水野晴郎

金曜夜9時 ゴールデン洋画劇場/解説:高島忠夫

土曜夜9時 土曜映画劇場/解説:増田貴光

大阪在住ですから,テレビ東京系の木曜洋画劇場は観られなかったのですが,それでも火曜と木曜以外は,連日夜9時から映画漬けという日々・・

この時代は,どの番組にも解説者がいて,それぞれの個性で勝負をしていました。


淀川さんはちょっと別格として,この中で「映画評論家」といってピッタリくるのは,早くに亡くなった荻昌弘氏ですね。

穏やかな口調で知見の豊かな人だった印象ですが,けっこう辛らつな評をすることがあり,たしか『人喰いアメーバの恐怖』という作品の解説で,その発想がいかにお粗末であるかを大真面目に語っていたことを思い出します。


水野さんは,どんな映画でも基本的に良いところを誉める,見どころを語る人。テレビの洋画劇場で,『ルパンⅢ世』シリーズなどアニメ作品をかけだしたのは水曜ロードショーが嚆矢だと思いますが,そんなときも特別番組にせず,通常出演していたのは水野さんだけではないかと思います。

でもこの人,関西ローカルの番組では,日本映画に対して,けっこう厳しい発言をしていたこともあります。


土曜の増田貴光氏は,知る人ぞ知る「あの人は今」解説者。ちょっと問題ありで,この人のことは軽々に発言できませんが・・

この土曜映画劇場だけが1時間半枠で,B級作品が多かった印象。今と違って,ホラー映画は低く観られていた頃でしたが,カルトなB級怪奇映画をたくさん見せてくれました。


今,各局の洋画劇場は解説者がいなくなり,どこか味も素っ気もなくなって,私はもうほとんど観なくなってしまいました。

地上波でCMが入り,カット有り・吹き替えでは,DVDや衛星放送で気軽に完全版が観られる今の時代には,どうしても見劣りがして不利。何か工夫が必要だと思いますね。


水野晴郎さんの訃報に接し,幼いころから「映画」を教えてくれたテレビの洋画劇場にノスタルジックな思いを込め,そして何より水野さんに感謝の意を込めて,ご冥福をお祈りいたします。

<黙祷>

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2008/06/07

【芸術とは;その1】言葉を許さない感性

久々に再会しました。千里丘陵は万博記念公園にたたずむ太陽の塔・・

Taiyoto1

こんなに近くで見るのはいつ以来だろう?

万博当時,大阪に住む小学生だった私はこの塔が大好きで,万博会場を訪れるたび,傍から塔を見上げていた記憶があります。

その後,高速を走る車中や,空港に向かうモノレールから遠目に見ることはあっても,こんなに接近するのは,たぶん20年以上ぶり・・

初めてこの塔を目視する人は,見る前に思い描いていたイメージを粉々に打ち砕くそのスケールに仰天するのだそうです。小さな子どもだと,恐がって泣き出すこともあるのだとか。

私も久々に間近で目にして,こんなにデカかったのかと再認識しました。昔より大きくなったような錯覚すらありました。

体高65mというその数値は,東京タワーの333mはおろか,通天閣の100mにすら及びませんが,しかし,そんな理屈とは何の関わりもなく,この実物を目の当たりにしたとき,肌で感じる底知れぬ圧倒的なエネルギー感・・

実際,これほど,写真などで見て思い描くイメージと実物の印象に隔たりのあるものも珍しいでしょう。

人はこれを岡本太郎の「芸術」と呼びます。

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その正体は,70年万博のとき,お祭り広場のテーマ館として建てられた建造物であります。

万博当時は,各国・各企業の巨大パビリオンが林立するなかに,お祭り広場の大屋根を突き破るかのように,ニューッと首を出していました。

太陽の塔自体がパビリオンの一つで,内部には展示がありましたが,たしか1時間か1時間半待ちで入れたので,それほどの人気館ではなかった印象です。

エスカレータで昇りながら,らせん状に置かれた原始生物から,大きな恐竜やマンモス,原始人などを象った展示物を見た記憶があります。

言ってしまえば,これは単なるパビリオンの遺構でしかないのですが,しかし,これだけは,ただのモノという感じがしません。

その異形のフォルム,3つの顔を持ち,大地から生え出した未知の巨大生物であるかのような,タップリとしたボリューム感と生命感・・


例えば,東大寺の大仏やニューヨークの自由の女神は,その建造の目的が明確だし,それらが何を意味するものかは誰もが知っています。

Taiyoto2
しかし,この太陽の塔は,その形象の「意味」を言葉では説明できません。理屈ではとらえようがなく,ただ目に映じるイメージから「感じ取る」ことしか許さない。

製作当時,この塔の意味するところを問われた岡本太郎自身が,「意味なんてあるもんか!」と答えた話は有名。

大人はどうだったか知りませんが,私たち,当時の子どもは,みんなこの太陽の塔が大好きでした。子どもは物事に意味を求めたりしません。ただ純粋に,目に映るそのフォルムから,理屈とは対極にある何かを感じ取っていたのだと思います。

芸術のうちでも,特に「前衛」とされるものは,作家の肉体や精神から,まさに「バクハツ」するがごとく産み落とされるものなのでしょう。そこに「理屈」を求めるのは,もともと理屈に合わない・・


今はのどかな千里の丘に,「人の洪水」を生ぜしめたあの狂熱のイベントから既に38年が過ぎ,スローガンだった「人類の進歩と調和」は,もはや無邪気に信じることができなくなり,未来的だったパビリオンはみな色あせてしまいましたが・・

しかし,この太陽の塔だけは,過去も現在もなく,そして恐らくは未来もなく,ひたすらその異様な形象を,天空に向けて突き立て続けています。その時どき,出会う者たちに,強大なインパクトを与えながら・・

ゲージュツ恐るべし!! 1970年の建立から,ずっとその存在を心の隅に置いてきた者として,まさに感無量と言うべき再会でありました。


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2008/06/01

『ランジェ公爵夫人』感想&ジャック・リヴェット監督特集

いま,大阪・九条のシネ・ヌーヴォでは,ジャック・リヴェットの最近作『ランジェ公爵夫人』が上映されており,引き続き6月には「ジャック・リヴェット監督特集」が催されます。

上映作は80年代以降の6作品で,なかに『美しき諍い女』がプログラムされているので,これは千載一遇のチャンスではないかと思っています。

長すぎる映画が苦手な私は,もともとリヴェット作品は敬遠気味で,特に4時間にナンナンとするこの『美しき・・』には,これまで挑戦する勇気がなかったのですが,これを機会に観ておきたいなと・・

上映作は以下の通りです。

『美しき諍い女』 1991年/237分
『ジャンヌ・ダルク I 戦闘』 1993年/178分
『ジャンヌ・ダルク II 牢獄』 1993年/160分
『地に堕ちた愛』 1983年/125分
『嵐が丘』 1985年/130分
『Mの物語』 2003年/150分

上記作品の上映期間:6月7日~27日 →公式サイトはこちら


では,先週,『ランジェ公爵夫人』を観てきましたので,取りあえず短く感想を・・

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『ランジェ公爵夫人』

2006年/フランス・イタリア/137分


個人的に,ここのところ多忙を極め,何週間も睡眠が足りておらず,疲労がピークに達しており,正直こういう映画はつらかったのですが・・ 


映画の冒頭,ギョーム・ドパルデュー演ずるナポレオン軍の英雄が,かつて愛しながら結ばれず,今は女子修道院の人となった女を捜し求めるシークエンス。

秘密の面会部屋で,鉄格子越しに修道服に身を包んだ女がバーンッと登場するシーンの,そのただならぬ空気感! ここは,なかなか映画的な感興がありました。


ただ,そのあとは,ひたすら過去の恋のさや当てゲームの描写となり,しかも,ナポレオン時代の斜陽貴族のお遊びみたいなユル~い空気が,体調の悪い私には堪えました。

加えて,主演のジャンヌ・バリバールという,もうベテランの域に入った個性的なマスクの女優にどうしても魅力を感じることができず・・ 確かに演技力はあるようですが,孤高の英雄を翻弄する女としてはどこか弱い。

もう,ともかく眠くて眠くて・・ 実際に序盤で寝てしまったのでした。(^^;


しかし,映画の中盤以降,舞踏会の帰りに夫人が誘拐されるあたりから俄然リズムがよくなり,男女の立場が転倒して,映画的にもサスペンシヴになって,一気に目が覚めました。


そして,カタストロフを絵に描いたような結末と,何より,ラストワンショットの「激情」を一気に醒ますクールな終幕が効いていて,さすがに「映画」を心得たつくり方だという印象。


2時間超とはいえ,リヴェット作品としては短めだし,また体調がよいときに観なおしたいなと思う,まずまずの作品でした。


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2008/05/26

『今夜、列車は走る』 ~日本ではできなくなった映画~

2004年/アルゼンチン/110分
監督:ニコラス・トゥオッツォ
脚本:マルコス・ネグリ,ニコラス・トゥオッツォ
撮影:パブロ・デレーチョ
出演:
ダリオ・グランディネッティ(カルロス)
メルセデス・モラーン(スサーナ)
ウリセス・ドゥモント(ブラウリオ)
パブロ・ラゴ(ダニエル)
バンド・ビリャミル(アティリオ)
オスカル・アレグレ(ゴメス)


大阪・十三の第七藝術劇場でしばらく前に観た,珍しいアルゼンチン映画の一作です。

じつはもう4年も前の作品で,何ゆえ今になって配給されたのだか,事情はよく知りませんが,世界各地の映画祭でかなり賞を獲っているようですし,実際に観ても,けっこう佳作であると思いました。

それなのに,私が観たとき,日本での上映館は5館だけで・・ いま公式サイトを見ると7館に増えているようですが,でもまあ,かなりマイナーな扱いなのは確かです。


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本作は,鉄道民営化でリストラされた鉄道員たちの「その後」を描いた作品ですが,何しろ日本のように失業保険や再就職支援など社会的サポートのある国とはまるで違って・・ 

こういう映画を観ると,今の日本はつくづく幸せな国だなと思わざるを得ないですね。

そういえば,今,日本では鉄道系の労働争議などほとんどありませんが,私が子供の頃は,けっこうストライキがあって,その度に学校が休みになったりしましたっけ。

何より,二十年前,国鉄が分割民営化されてJRになったとき,不採算路線の廃線やリストラが断行されたわけですから,やっぱり他人事ではないのでしょう。


映画のタイトルから,私の好きな鉄道の疾走するシーンが多いのだろうと期待したのですが・・ その期待はものの見事に裏切られ,鉄道が走るシーンは前半にワンシーンあり,あとはラストシーンがあるだけ。

それもそのはず,冒頭からいきなり鉄道路線は廃線になってしまい,労組の代表は自殺してしまうという幕開きなのです。


映画は,元鉄道員5人とその家族の「その後」を同時併行で描いていて,失業したオジサンたちが職探しをしたり,引きこもったり,独り修理工場で抵抗を続けたりといった哀しいエピソードを,ラテン的な明るさに包んで綴っていきます。

表面上の可笑しさ,明るさとの対比で,余計に人生の悲哀を際立たせるといった趣向。


映画の終盤まで5本のレールに分かれていた物語は,ラストのある劇的な事件によって1本のレールに合流し,そこを次世代の若者たちを乗せた列車が貫くように走ります。
 
八方ふさがりな暗闇の中を,一陣の光がつんざくようなイメージ・・ 最後の最後まで,明確な希望はあえて見せないで,何とか明日へと希望をつなぐような感覚。

映像自体は,どちらかと言うと息苦しい画面構成でスカッとしないので,最後ぐらい,もう少し明るく空気の抜けの良い画面を見せてくれたら,と少し残念な感じはしますが・・ 

やはり列車は夜に走らせる必要があったのでしょう。これこそが,この作家の象徴志向の表れのように感じました。


私はアルゼンチンの社会情勢などに詳しいわけではありませんが,それにしても理不尽極まりない。今の幸せな(?)日本では,こんな作品はもうできないでしょう。

しかし,日本もかつてはそうだった。過酷な状況に置かれながら,たくさんの人間があがいてもがいて,一つひとつ幸福をつかみ取って来た。それは戦後の日本映画を線で観てくれば,わかること。


「社会派」なんて言うのは口幅ったくてイヤですが,今の日本人(或いは日本映画)が失ってしまった,ある種の「粘り気」を感じさせる1本でした。


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2008/05/16

昨今の邦画リメイクと時代劇の行く末

清水宏の『按摩と女』をカバーした『山のあなた 徳市の恋』がもうすぐ公開になるようですね。

この話題については,もう1年近く前にこのブログで記事(→この記事)を上げていたので,もうとっくに公開されていたものとばかり思っていたのですが・・

それにしても,最近は邦画界もハリウッドに負けず劣らず,旧作のリメイクやカバーが流行りのようで・・ 今年,没後10年を迎えた黒澤明作品も,昨年の『椿三十郎』に続き『隠し砦の三悪人』がリメイクされ公開中。

原作品を超えるのは困難でしょうけど,これを機会に多くの人が清水や黒澤のオリジナルの方にも目を向けてもらえれば,私としては望外の喜び。それなりに意義はあったということで・・

しかし,時代劇のリメイクは,どうしても分が悪いでしょうね~ 昔と違って,もう専門役者はいないし,殺陣師やからみの役者も,今どき,どれほどの人材があるのだか・・ 全盛期の職人さんたちはどんどん高齢化し,引退してしまった人も多いでしょうから。

これはハリウッドの西部劇映画なども同じ事情なのかもしれませんが,様式や伝統が重んじられる日本の時代劇の方が,現実はずっと深刻なように思います。

昔の時代劇は,特有の台詞づかいが鍛えられていたし,例えば既婚の女性はお歯黒をしていたりと,そんな風俗描写も板についていましたが,今どきのはどうも・・

ちょっと前に,夜中の某テレビ番組で藤田まことをゲストに向かえ,「必殺シリーズ」の特集を組んでいたのを見ました。

必殺が始まった1970年代の初めといえば,映画の斜陽化がいよいよ深刻になっていた頃,映画界からテレビの方へ,どんどん人材が流れていたようです。

番組中,必殺初期の頃のプロデューサーがインタビューに答えて曰く・・

「とにかく『映画』から来た人はぜんぜん違った。テレビのディレクターなんて子供みたいなもんやった」

1970年に大映が倒産すると,三隅研次や田中徳三などはテレビへ活躍の場を移し,必殺シリーズも撮っていたようです。

今観ても,その頃のテレビ時代劇というのは,やはり「映画的」なんですね。今どきの作品とはずいぶん空気感が違います。

それから30年以上がたち,映画界から来た職人さんたちも既に退いた人が多いでしょう。もう時代劇は,役者も含めて映画育ちの職人はほとんどいなくなった・・

今はテレビの方から映画に手を出す時代。テレビ番組の特番が映画(のようなもの)としてスクリーン上映されたりするわけですから・・ 時代は変わったのだと思わざるを得ません。

これから先,邦画・・特に時代劇はどういう途をたどって行くのでしょうか? 一映画ファンとしては,ただ黙って見守るほかないのですけど・・

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2008/05/11

新進監督の「鉄道」ムーヴィー2本

ここしばらくカール・ドライヤー作品のしんどいレビューに手を焼いている間に,じつは最近封切られた作品を2本を観ていたのですが,これがどちらも「鉄道」をあつかった作品。

しかも,この2本の監督はまだ若い新進作家で,それぞれ1969年生と1970年生の同世代・・

ところが,その作品傾向は全く対照的で,住む世界が違うといった印象なのです。

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1本目は,私としては珍しく20世紀フォックス配給のハリウッド映画
『ダージリン急行』(2007年)。

シネ・リーブル梅田のレイトショー1200円につられて,何となく観た映画で,ハリウッドらしく,ふんだんにお金をかけてインドロケを敢行したロードムーヴィー。しかし,味わいはインディペンデントなのです。

監督のウェス・アンダーソンという人を私はよく知りませんが,最近けっこう注目されているらしく・・ どこか60年代的なサイケデリックなセンスが面白い。

兄弟の確執をモチーフにしながら,いかにもアメリカ映画らしく,生活観がほとんどなく,肩の力を抜いて観られる"ブルジョワジーなフィルム"です。


2本目は,日本で公開されること自体が珍しいアルゼンチン映画
『今夜、列車は走る』(2004年)。

これは先週,第七藝術劇場で観ましたが,公開(予定)は全国で5館だけという超マイナー作品。東京では例によってユーロスペースのみの公開・・ ただ,好評によりレイトショーで延長になっているようです。

こちらは,鉄道の民営化によってリストラされた元鉄道員たちの生活観あふれる"プロレタリアートなフィルム"。多分,DVDにもならずに終わるような低予算作品ですが,芯はしっかりしています。

シリアスで重苦しいテーマながら,ラテン系らしく人間の可笑しさを表現して辛くなりすぎない処理は,映画として好感が持てます。

監督のニコラス・トゥオッツォは,これが長編処女作。世界各地の映画祭で高く評価されたのに,それから4年もたって,今年ようやく2本目が撮れるのだそう。アルゼンチン映画の現状は厳しいようです。


どちらが良いとか悪いとかいうことはなく,それぞれの世界観のなかで,それなりに佳作であると思います。レビューはまた近いうちに・・


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2008/05/10

『怒りの日』 ~人間であることの罪~

1943年/デンマーク/97分
製作・監督:カール・T・ドライヤー
脚本:ポール・クヌッセン,カール・T・ドライヤー,モーウンス・スコット=ハンセン
撮影:カール・アンデルソン
出演:
トルキル・ロース
リスベット・モビーン
アンヌ・スビアキア
シグリ・ニーエンタム


これはドライヤーの作品の中では,比較的,ストーリーラインが明瞭で表現も解かりやすく,映画としてはふつうに観やすい作品であると思います。

例えば『ゲアトルーズ』のような,ユッタリと眠気を誘うようなリズムの作品とは違い,演劇的なスピード感があって,サスペンスも強烈で面白い映画といえるでしょう。

それと同時に,厳しく「人間」を凝視する視線を持った作品でもあると思います。

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本作は,ヨーロッパ中世の魔女狩りに材を取っており,ドライヤー作品の中では,『吸血鬼』ほどではなくても,視覚的なケレン味があって,取り分け肉体感覚の生々しさでは群を抜く印象です。

魔女の血を引くとされるアンネは,父娘ほど年の離れたアプサロン牧師の後妻に入りますが,老いた聖職者の妻という欲求不満に加え,姑にも憎まれ針のむしろ。そんななか,学業を終えたアプサロン師の息子が戻ってきます。


まず,序盤で魔女とされる老婆を捕え,火刑にするシーンが恐ろしい・・

教会の殺風景な審問部屋で,多くの牧師が取り囲んで,老婆を拷問にかける。ドライヤー映画特有のシンプルな室内,その壁に踊る「影」,よどんだ空気をつんざく老婆の悲痛な叫び声・・

この老婆が,牧師に脅迫まがいの命乞いをするあさましい「人間」として描かれているのがポイントで,拷問シーンではブヨブヨの肌を露わにして,乳房が見えそうなくらい・・ その不快な肉感や生命感が,続く火刑シーンの恐ろしさを倍加させている感じがします。


問題の火刑シーンは『裁かるるジャンヌ』と同じく,昼間の屋外セットでドキュメンタルな感覚を活かしています。

ともかく,高い梯子に括りつけた老婆を,モクモクと煙を上げる業火の中へドサッと落とす一瞬がショッキングで,その生々しい質感は,今どきの無機質なコンピュータ映像では表現のしようがないものでしょう。


アンネは,最初のうちは貞淑な印象ですが,アプサロン師の息子と出会って,徐々に魔性をあらわし,老婆の無残な火刑をも忘れ,義理の息子を誘惑して禁断の愛に身を焦がします。


アンネを演じた女優の目が印象的で,彼女の顔のクロースアップが繰り返され,意識的に横からライトを当てて,爛々とした目の光を強調しています。

特にクライマックスで,アプサロン師に残酷な責め言葉を浴びせ死へと誘うアンネを,これでもかというぐらい美しく撮り,緊迫感と同時に,ある種のエクスタシーで最高潮に達します。

そして,アプサロン師がついに命を落とすとき,観ている方も,自分の心奥に潜む「悪魔」を暴いて見せられ,ハッとさせられるのです。


これは,もちろん魔女を主人公にしたホラー映画ではなく,魔女とされる人物も,ふつうに人間として描かれます。

本作の本領は,宗教的な戒めなどでは決してなく,宗教と対峙する生きた人間の真実,抗いきれない本能と,その「罪の本質」を暴いて見せたこと・・ 実に峻厳な作品であると思うのです。


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2008/05/04

『ゲアトルーズ』 ~これが純化の極地なのか~

1964年/デンマーク/117分
監督・脚本:カール・T・ドライヤー
撮影:ヘニング・ベンツェン
出演:
ニーナ・ペンス・ローデ
ベント・ローテ
エッベ・ローデ
バール・オーウェ


映画のレビューを書いていて一番苦しむのは,文章では,ほとんど何も語りつくせないような作品に出くわしたとき。

誰もがそうなのかもしれませんが,私はブレッソンやタルコフスキー,そして今回のカール・ドライヤーの諸作については,いつもその思いを強くします。

本作はドライヤーの遺作ですが,他の作品に比べると,ちょっと異質な感じがして,これをどう表現すればいいのか・・ 今回は迷いながらのレビューになってしまいそうです。


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映画史にその名を刻する巨匠カール・ドライヤーは,「聖なる映画作家」などと呼ばれることが多いようですが,そういう視点ばかりで捉えるのは,私には違和感があります。

いつもドライヤー作品を観るたびに,私は,映像に何やらセクシャルな感覚がつきまとうのを感じるのです。それは精神性の発露と同時に,俗な肉体感覚を映像に還元して見せるとでもいましょうか。


『奇跡』(1954年)の有名なラストシーン,モノクロームの簡潔な画面の崇高さと,棺に横たわる妻の亡骸の聖性・・

しかし,このシーンの感動の本質は,「聖骸」を生きた「肉体」に還俗(げんぞく)させる瞬間にこそあるのではないかと思うのです。甦った女が夫と抱擁し接吻しあうそのフォルムの生命感・・ この肉体感覚があってこそ,かのシーンは輝きを帯びて感動的なのであると。


ベッドに括りつけられた娘の凄絶な美貌,魔女の血を引く人妻の淫靡な誘惑,生きたまま業火で焼かれる女の肉感・・ ドライヤー作品に見られるサスペンシヴで官能的な映像の数々。

ドライヤーの映画は,ただ高尚で無機的な精神の映画ではなく,いつも精神と対置される肉体の存在感によって人間の「真実」を表現しようとしている,言うなればそんな印象なのです。


そんな中にあって,この『ゲアトルーズ』はかなり趣きを異にし,ひたすら枯淡として肉体感覚の希薄な作品といった印象があります。 

主人公のゲアトルーズ(を演じた女優)は,洗練されたイメージが強くて,俗な言いかたをすれば,女臭さが薄く性的魅力に乏しい・・

それは,『奇跡』から10年の沈黙を経て,当時すでに70歳代の半ばだったドライヤーが到達した境地を物語っているようにも思えるのです。


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本作は,「真実の愛」を求める女ゲアトルーズをめぐって,彼女を取り巻く男たちとのツーショットの会話を中心に構成される様式性の高い作品。

男は仕事に生き,女は愛に生きるといったいささか通俗的な図式のドラマを,限られた空間における,静かに内面をあぶり出すような映像で綴っていきます。


会話する男女を,ソファの端と端に並べるようなショットが繰り返され,キャメラをゆったりと左右に移動しながら人物をとらえ,そのフォルムや距離感,交錯を拒絶する視線などで,心の距離やすれ違いを表現します。


夫やかつての愛人と会話するゲアトルーズの視線は,常に宙をさ迷っているのですが,歳若い不倫相手との逢い引きでは,しっかりと顔を見据えて愛を語り,接吻を繰り返す・・

印象的なのは公園での逢い引きシーン。ゲアトルーズと若い愛人は抱擁しあい愛を語る。ゲアトルーズが「(愛していると)もう一度言って」とせがむと,男はゲアトルーズの身体から離した手をやおらポケットに突っ込み,「愛している」と冷めた調子で言う。

こういった静的なフォルムと表情の微細な変化,音像の象徴性などにより,ゆったりと,しかし確実に,見えない「真実」を垣間見せる映像の妙。


夫も,愛人も,かつての恋人も,すべてを捨ててパリに住む旧知の医師の許へと家を出るゲアトルーズ,その嬉々とした歓びの表情・・

ところが,そこから突如として時を超越し,アヴァンチュールのすべてを省略して,愛に生きようとながら,ついに愛を得られなかった女の皮肉な末路を見せてしまう。

ラストショットの固く閉じられた扉が,老いた女の諦観を物語るかのようであります。


老境に入った作家が,もはや精神のざわめきも,肉体の疼きも昇華しつくし,純化されたようなタッチで見せる様式劇。これを本当に理解するためには,私などは,まだまだ年季が足りないのかもしれません。


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2008/04/30

日本最終上映!カール・ドライヤーをはしご鑑賞

この4月末をもって,カール・T・ドライヤーの諸作の日本における上映権が切れるというので,祝日の4/29を挟むこの3日間だけ,京都みなみ会館と滋賀会館の共催で,ドライヤーの特集上映を組んでくれました。

ありがたいことです(が,ギリギリ過ぎ。もうちょっと余裕があればねぇ・・)


上映作は以下の5本です。

『裁かるるジャンヌ』(1927年/フランス/無声)
『吸血鬼』(1931年/ドイツ・フランス)
『怒りの日』(1943年/デンマーク)
『奇跡』(1954年/ベルギー・デンマーク)
『ゲアトルーズ』(1964年/デンマーク)


数年前(2003年らしい)に,東京でドライヤーの大特集上映が催されたとき,この5本は全て観ていますが,今回,観直しておきたかった『ゲアトルーズ』『怒りの日』の2本を,滋賀会館→京都みなみ会館のはしごで観てきました。


『ゲアトルーズ』は,前回は,確か移転前のユーロスペースで観たのですが,不覚にも睡魔に襲われ,まったくハンパな観方しかできておらず,『怒りの日』も1回観たきりで,当時レビューも書かなかったので・・


他の3本はすでに2回は観ているため,今回は割愛ということにしました。日本最終上映なので惜しかったのですが・・

やはり1日では2本が限界。ドライヤーの映画を日に3本も4本も観るのは,今の私では体力・精神力が持ちません。(T_T


それにしても,京都みなみの方は,かなりの集客でちょっとビックリ。やっぱり関西ではこういう作品の上映機会が少ないですから・・


作品のレビューはまた折りをみて。


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2008/04/27

『夜顔』 ~ピコリの微笑~

2006年/ポルトガル・フランス/70分
監督:マノエル・ド・オリヴェイラ
製作:セルジュ・ラルー
脚本:マノエル・ド・オリヴェイラ
撮影:サビーヌ・ランスラン
出演:
ミシェル・ピコリ(アンリ・ユッソン)
ビュル・オジエ(セヴリーヌ・セルジー)
リカルド・トレパ(バーテンダー)
レオノール・バルダック(娼婦1)
ジュリア・ブイセル(娼婦2)
ローレンス・フォスター(指揮者/特別出演)


マノエル・ド・オリヴェイラの最近作は,かのルイス・ブニュエルの名編『昼顔』にオマージュを捧げ,その登場人物の38年後を描いたという設定。

しかし,『昼顔』が人間の業を白日にさらした構成的なドラマであるのに対して,本作はその続編というシチュエーションを借りながら,まったく傾向の異なる軽妙な一編で,ドラマの終幕を引く「映像詩」とでも言うべきものであります。


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『昼顔』は,カトリーヌ・ドヌーヴ演ずる背徳の人妻セヴリーヌを主人公とした倒錯愛の物語。ミシェル・ピコリ演ずる好事家アンリ・ユッソンは,キーマンではあっても脇役でしかありませんでした。

しかし,本作は全体がユッソン氏の視点から描かれており,しかも中盤までは,ほとんど彼の一人芝居に近く,その視点の違いは,そのままブニュエルとオリヴェイラの作家的な違いと言えるのかもしれません。


ブニュエルは自らのフェティシズム感覚を映画づくりのベースに持っていて,だからその映像は耽溺性と耽美性にあふれ,セヴリーヌのみならず,チンピラ青年の爬虫類的な気味の悪さなど,独特な肌触りに彩られていました。

そこには,人間性の闇を見つめながら,人生を突き放した視線で切り取るといった趣がありました。


それに対して,100歳に近いオリヴェイラにはそういった「生臭い」感覚はなく,あるのは人生の落日を迎えた好き者老人の孤影。

過ぎ去ったものは虚しく,もはやかつての面影を留めてはいない。セヴリーヌに再開し,久々に昂ぶる心・・ しかし,ユッソン氏の前にいるのは,もはやかつての背徳の美女ではなく,市井の片隅にひっそりと生きる老婦人。

ユッソン氏が常に口許に浮かべた微笑が象徴的で,どこか言い知れぬ諦念が漂っています。

遠い過去の「真実」も「裏切り」も,今はもうどうでもよいこと。ロウソクの炎が燃え尽きるように命尽きるとき,人生のあらゆるものは(愛も罪も)等価となる・・ そんな感覚が跡を引きました。


作中,ユッソン氏がバーテンダーを相手に,かつてセブリーヌが犯した罪の正体を語るシーンがあるのですが・・ 笑みを浮かべて,美味そうにウィスキーにノドを鳴らすユッソン氏。悠々とフィックスで撮ったフォルムに,ノドの音像を際立たせる,そんな重厚な描写が心憎いですね。


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本作では,シークエンスとシークエンスの合間に,パリの街並みの昼夜の俯瞰ショットが挿入され,これは小津映画でいうカーテンショットに類するものと考えられます。

しかし,小津が例えば3秒で切るものを,何十秒も延々と見せ続け,しかも,そこだけBGMとしてドヴォルザークの第8番交響曲をこれでもかと聴かせるんですね。

このショット以外は全くの生活音だけで構成されているため,その浮き上がり方が印象的で,ひょっとして,舞台の幕間のような効果を狙ったものかもしれません。


また,ホテルの外に立つジャンヌ・ダルクの像を,これまた微笑を浮かべたピコリの視点を借りて,執拗に映し続けるシーン。

これは物語の進行とは関わりなく,明らかに作品の中で孤立しており,映画を構成する一要素でありながら,シーンが独自性を主張している。

まさかブニュエル作品『小間使いの日記』のジャンヌ(・モロー)をもじったのではないとは思いますが,自在に映像を操り,独特な空気感を前面に出す。そういった作家の拘りが感じられます。


ほかにも,『昼顔』で東洋人(日本人?)が持っていた虫の羽音がするナゾの箱を再登場させ,ラストは唐突に鶏がヒョコヒョコと出てきたり,ブニュエル映画のファンをクツクツと笑わせるようなマニアックな一面があります。


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特徴的なのは,フィックスを基本にした長回し撮影ですね。

冒頭の演奏会で,セヴリーヌを追って劇場を出たユッソン氏が,彼女に逃げられて一人ポツンと劇場の入口付近をウロウロするシーン。

劇場を出た人波はひとしきり過ぎ去り,誰もいなくなって門は閉じられ,灯りも落とされ・・ 映像が寂しくなるのと併行して,言い知れぬ無常観がスクリーンに満ちていく。それをワンショットで魅せる感覚描写。


そして,何といっても圧巻は,ユッソン氏が嫌がるセブリーヌを誘いだしての夜会シーン。

料理の最初の一皿が出されて,それを二人が食べ終わるまで,延々とサイドから固定のワンショットで撮り続け,その間,一言のセリフもないんですね。

給仕のいる個室なので,二人とも立ち入った会話ができず,その緊迫した空気のなか,どちらかが口を開くのを,今か今かと待つサスペンス。


ラストは給仕たちが部屋を片づけるのを,これまた固定・長回しで見せ,料理やワイン,テーブルクロスなど小道具が取り払われ,色褪せたテーブルと椅子,蜀台が残され,最後はロウソクの炎とともに何もかも儚く消え去る。


まさに悠揚迫らず,わずか70分のなかで,大胆にそして細心に映像を紡ぎ,そこに生じる芳醇な味わい,そこはかとない艶やかさ。御歳100を数えるという作家の人生観を凝縮したような逸品であります。


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